やっと会えたケアマネージャー
7月4日(火曜日)
このBistandsbedomareという看板がケアマネージャーという意味です。 ケアマネジャーに会いたいと思いながら、なかなか、出会えませんでした。ケアマネージャーという発想は厚生労働省の方か、 学者の方がスウェーデンをモデルに作ったんだ、と思いました。しかし、介護保険の審査委員会はありません。 サービスの内容はケアマネージャーが決められるのです。日本の場合は似て非なるアイデアだけを着用したようです。
自治体にはA4を2つに折った介護サービスの10種類以上のリーフレットがあり、 ケアマネージャーの案内には、地区ごとに分かれたケアマネージーの電話番号が書いてあります。 電話一本でケアマネージャーがすぐに高齢者を訪問。家族と本人のいる本人の家に行きます。そこで、高齢者のニーズを聞き、 ケアマネは事務所に帰り、すぐに、利用者の状況とサービス内容を書いた書類を作成します。ケアの手配の書類も作成。 隣の部屋の在宅介護チームの責任者のポストに入れます。3つ目の書類は高齢者に「決定」と書いた書類を送ります。 ケアマネの権限ですべてが決められます。決まった内容に高齢者が不満の場合は、県の裁判所に訴えます。
写真は市内を担当するイボンヌさん。3種の書類を見本としてくれました。ただし、 名前のところを消して。写真は名前を消しているイボンヌさん。なんだか大らかな感じです。きちんと消えていなかったので、 書類の訳を頼んだシーマさんがはさみで切り取ってしまいました。無残な3枚の書類ですが、大事に持って帰ります。
ところで、エスロブ市には、家事援助も含めると700人近い介護認定を受けた高齢者がいますが、 ケアマネの数は4人。3人が日本と同じケアマネで在宅が主。施設も担当しています。社会サービス法にのっとった手配をしている人たち。 1人が病院を退院する時にサービスを決めるケアマネで、出身は地区ナースです。
2006年07月24日 07:00 | 投稿者: rumi
カタリーナ・コリンさんの在宅介護
7月3日(月曜日)
午前7:00 カタリーナ・コリンさんは今年50歳。彼女は在宅介護の市内チームリーダーです。 今日は彼女の働きぶりを取材します。もう、すでに3回ほど同伴しているので、今日は最終確認の同伴取材です。写真は、 市内チームの訪問介護ステーションは2つに分かれていて、その一つ南東チームの朝7時の風景が上の写真です。 6人が出動の準備打ち合わせをしています。3人がベテランで50代2人と60歳。3人が20代、30代です。 若い方の3人はマンパワーから来ている人で、レギュラーメンバーの夏休みの代行と急の欠勤の一人の埋め合わせで来ています。若いけれど、 マンパワーの人たちはエリート。どこででもすぐに働ける実力の持ち主たちが30人揃っています。どおりで若いけれど、 もの越しが落ち着いていると思った。
7:30に訪問介護ステーションの事務所を出発。7:40に最初の訪問先に車で到着しました。 前にも伺ったご夫婦の家で、サルロップという13世紀に建った古い教会のある地域で、エスロブ市に最初にできた居住区です。 ともに120キロはありそうな80代の巨漢のご夫婦。2人とも起床の手伝いを待っています。まずはご主人から。 夜間に装着していた尿の管とビニールを外し、オムツを交換。ご主人は天井からぶら下がってハンドルを使い一人で起床。 歩行器を使いトイレに行きます。この後、奥さまの起床介助と足に血流をよくするストッキングを履かせて、着替えは自分でしてもらいます。 2人のベットメイキングも合間に済ませて終わり。寝ている時は重症に見えた両人とも着替えたのを見ると元気です。 食事の支度は奥さまの仕事です。カリンさんの凄いところはご主人とも奥様とも実にテンポよく会話をしている点です。手を動かしながら、 喋れるのが特徴です。家を出たときに時計を見ると、2人で30分の滞在。
上の写真はトイレまで一人で歩行器を使っていった後の写真。トイレの外の写真です。 4つ目の写真はトイレの外においてあるこの日のゴミ。台所の生ゴミと紙ごみを手分けして、ゴミを捨てるのも大事な生活サポートの一つ。 トイレと着替えを終えたご主人は一人で髯をそります。できるだけ、何でも自分でするように、さりげなく介助しています。
この朝、カリンサンが訪問したお宅は11時までに9軒を訪問。採血、入浴介助も含めての数です。 安否確認の5分の滞在も、実に存在感があり、落ち着いた手際の良さには改めて感服しました。 50代の働き手がエスロブでは働き盛りという印象を受けました。
2006年07月24日 01:21 | 投稿者: rumi
高齢者のリハビリテーション
6月20日(火曜日)
話を少し前に戻します。写真は6月20日の取材に関してです。
写真はエスロブ市のリハビリテーションを総括するスタファン・オルソンさん。 スタファンさんはこれまで何度もインタビューしています(実は7回)。エスロブ市のリハビリは3種類。“短期在宅リハビリ” (脳卒中や骨折の治療が終わり、病院から家に帰った高齢者を理学療法士や作業療法士、アンダーナースとともに自宅で生活できるようにする)、 と長期の在宅リハビリ(在宅介護のチームと共に活動)、施設のショートタイムリハビリ(退院した後に機能回復する)の3種。 スタファンさんは、これ以外にナイトパトロールを含んだ在宅安全アラーム、高齢者の集会場カリダールを統括しています。 高齢者を元気にするのが彼の仕事。スタファンさん自身も理学療法士です。人望が厚く、滞在中にとてもお世話になりました。 写真は統計資料をパソコンで調べてくれているところです。
スタファンさんはエスロブ自治体(市)のリハビリの統括ですが、 上の写真はエスロブが属するスコーネ県の地域医療センターのリハビリの場です。
ちなみに1992年のエーデル改革でスウェーデンは医療は県が、 ケアは市が受け持つように棲み分けされました。お医者さんは自治体に属していず、県に属しています。専門的な病気は県の病院に行きますが、 風邪などの初期医療は、エスロブに3つある地域医療センターで見てもらいます。しかし、リハビリは県も自治体も両方でやっています。 県のリハビリは、若い人や継続的なリハビリで、高齢者に直結したリハビリは自治体が受け持っています。
2006年07月24日 01:08 | 投稿者: rumi
アイヌを連想するヴァイキングの生活。
7月1日(土曜日)
ヴィンセント君の一家とバイキング市に行きました。バイキングの歴史に関しては少なからず、 興味を持っている私と、夫を車でエスロブから1時間かかって連れて行ってくれたのです。夫は明日帰ります。 ここは日本で言えば江戸村のようなもの。昔ながらのライフスタイルで夏の一時期過ごす人々の集まりです。 60年代に放浪をしてここに流れてきたヒッピーの人たちもいるそうです。
この村を歩いていると夫は「アイヌの文様に似ている」 と彼らが作った織物や彫刻を見て感想をいいました。思えば、家の作りもどこかで見たような茅葺屋根もあります。 英語で書かれた歴史の本を買いましたが、読んでいる時間がありません。
2006年07月23日 21:47 | 投稿者: rumi
地域ナースのサラさん
6月28日(水曜日)
今日は地域ナースのサラ・アレッソンさんにインタビューしました。昨日、突然、 サラさんから電話があり、「私が夏の休暇に入る前に、ボスからあなたのインタビューを受けるように言われたとのことでした。
ボスとは、エスロブ市にいる35人の看護師を統括するヤート・モラーさん。 6月8日にインタビューした時に頼んだことが実現できました。地域ナースとは、在宅介護のチームと連携を取りながら、 高齢者のプライマリケア(初期医療)を行う看護師。エスロブ自治体には在宅介護と密着して12名がいます。残りは、介護付き特別住宅(施設) とリハビリセクションに23人がいます。
サラさんは、「ケアの仕事を重ねていると、こんなに魅力的な人が出来上がることがあるのだ」 と冷静なシーマさんも感激したほど、素晴らしい方でした。地域ナースは医師との連携を密にしながら、実際には、かなり、 権限を委譲されて自立した仕事をしている看護師。「私のボスは私」というくらい自分で判断して治療を行っています。イギリスでも地域ナース (CNS/クリニカル・ナーススペシャル)は医師との連携を取るものの、権限を任されて活動しる看護師さんがいます。そして、 CNSは技術だけではなく、人格的にも人生の経験を積んで成長した大人がなる仕事と位置付けていました。 インタビューしたサラさんには温かな懐の深さを感じました。「これから休みに入るけれど、わからないことがあれば、ここに電話をして」 と自宅の電話番号とメールアドレスを教えてくれました。
2006年07月23日 21:30 | 投稿者: rumi
10日間のブレーク
6月22日(土曜日)
夫が23日から10日間エスロブに来ました。今回は私の最後の滞在でもあるので旅行をしないで、 私は仕事をしながら、エスロブでできた知人の家を訪ねました。ヴィンセント君のおばあちゃんの家。 日本人をこれで3人ホームステイしてくださったオケソンさんの家、料理が飛びぬけて上手なアンブリッドさんの家、そして、 私を担当してくrているクリスティーナさんの家などです。
2006年07月23日 21:06 | 投稿者: rumi
「トーベルンド」という名の
6月25日(日曜日)
これはエスロブ市にある「トーベルンド」という名の地域医療センターの看板。レジオンスコーネ (県)の管轄です。上からフィジカルセラピー、産婦人科、小児科、 看護学校という看板があります。ここは日本ではプライマリケア、つまり初期医療を受け持っているところです。 5月にインタビューした看護師のモナさんがここで医療の受付の仕事をしていました。日本だと町医者に診てもらう感じで、 自治体の人はここに来ます。そして、病院に行き、専門医の診断が必要だと、ここからルンドという急行の隣駅にある大きな病院に紹介されます。 初期医療ということで、ここのお医者さんは眼科や耳鼻科なども広く浅くみてくれます。ただし、お医者さんの数は7人。100% の勤務に換算すると、6,2人です。
通訳のシーマさんがここに電話をかけてくれて、ちょうど、居合わせたレナ・ サンドバーグさんという看護師さんが案内をしてくれることになりました。シーマさんとレナさんに感謝。 彼女は日曜の勤務で帰宅前の1時間をさいて患者のいない病室を丁寧に案内してくれました。簡単な処置室もあり、怪我の手当てもできます。 薬も下の写真のように準備されています。日本に比べ、スウェーデンでは町の中にお医者さんが少ない感じです。医療費を抑えているというのが、 感想です。
下の写真は受付センター。日曜もやっています。こちらでは、病気になったら、まず電話。 看護師のベテランが次に何をしたらいいのか。病院に行くのか、地域医療センターの医師の予約を取るのか、薬屋に行き、 風邪薬を買うのかを症状を聞きながら振り分けます。
2006年07月23日 20:51 | 投稿者: tomokiyo
ルードヴィッヒ君とフィリッパちゃんの卒業式
6月16日(金曜日)
ヴィンセント君の兄妹のルードヴィッヒ君とフィリッパちゃん2人が通っている小学校の卒業式に参列して感動しました。 11時30分から始まるエスロブ教会に全校生が集合。すでにヴィンセント君は中学校の式を終えて友人のジョン君と会場に来ていました。 成績表を私に見せてくれました。いい成績のようです。上の写真は6年生のル- 君のクラスの生徒が教会の前の広場で式の始まるのを待っているところ。 式はスウェーデンの国旗を先頭に1年から6年までの80人ぐらいが聖堂に入場します。
スウェーデンでは7歳から6年間の小学校教育が始まります。 13歳から15歳までが中学校の3年間の教育。16歳から18歳までが高等学校の3年間の教育です。高校では一般課程に加えて電機機械、 料理レストラン、介護、児童教育などの専門課程を学びます。プレソン家では10歳のフィリッパちゃんが4年生、 12歳のルードヴィッヒ君が6年生です。最初、どうして2人の卒業式があるのか理解できませんでした。 卒業するのは6年生のルー君だけではないのか・・。しかし、スウェーデンでは毎年、それぞれの学年の卒業式があることがわかりました。 会場には300人ぐらいの家族が集まっています。両親だけではなく、幼い弟や、祖父母、親戚という具合です。生徒は聖堂の祭壇に並びます。 遅く入場したので私たちは立ち見。後ろには双子を乗せた乳母車が2組。小さいほうの双子の赤ちゃんは7週間目。卒業生の兄弟です。
式次第は音楽で進められ、全員の合奏が繰り返される合間に、ヴァイオリン、ピアノ、 独唱が順番に入ります。歌のテンポも明るく速く、雰囲気がだんだん高まると会場からも手拍子が出てきました。 子どもたちの歌声は元気いっぱい。歌うのを聴いているうちに「僕たちはこの国に生まれてよかった」というように聞こえ、 うらやましい気持ちになりました。子どもを大切にしている国です。式は短く、校長の挨拶もカジュアル。サッカーのボールを足でけりながら、 「昨日、スウェーデンはサッカーに勝ちました・・、」というのが挨拶の出だしの言葉でした。
式が終わると、教会の庭に出ます。フィリッパちゃんのクラスでは、 女の先生が記念写真を一人ひとりの生徒の名前を呼びながら、ハグをしながら渡しています。フィリッパちゃんのクラスには、 トルホガーデンのマネージャーのマリさんのお嬢さんもいました。ネックレスの少女がしそのお嬢さんです。 ユーゴースラビア出身のご主人と一緒にマリさんのご家族の写真です。
式が終わり、道を歩いていたら、他の小学校の卒業式のパレードに出会いました。 ブラスバンドの演奏で行進しています。エスロブ市は教育に特化している町で学校が多いのです。
2006年06月18日 05:43 | 投稿者: rumi | コメント (0)
夏は卒業式とともに始まる
6月15日(木曜日)
これはミススウェーデンが乗るオープンカーではありません。ベルガ高校の卒業式のパレードです。 今日は朝から町の様子が賑やか、いつもと格段に違う人通りです。どこからか、祭囃子ならぬブラスバンドの演奏が聞こえます。子どもの時、 私の住む東京の小さな町でもお祭りの山車や神輿が練り歩く時は、その後をぞろぞろとついて歩く人を見かけましたが、今日はそんな感じ。
夕方、寮の部屋でパソコンに向かい仕事をしていたら、突然、 窓の外から賑やかな歓声が聞こえてきました。いつもは人通りの少ない道でリオのカーニバルが始まったみたいな感じです。 エスロブ特派員としては、スワッとカメラを片手に道に飛び出しました。
こんな立派なオープンカー、普段は質素なこの町では見かけたことがありません。どうやら 「クラシックカーのコレクションをしているお金持ち」が毎年貸してくれるのだとわかりました。運転をしているのは卒業生のお父さん。 お母さんの運転はあまり見かけませんでした。兄弟や友人まで一緒に乗り込んでいる車もあります。しかし、騒いでいるのは卒業生当人だけ。 オープンカーから身を乗り出して踊り、歓声をあげ、笛を吹き、ありったけの大声で歌います。トラックに乗り、 バンドの演奏をしているグループ、農業の耕作機を運転するグループ、男女学生の2人乗りの自転車も出てきました。 風船や国旗や笹の葉を車に飾り、みんな手には大きなプラカードをもっています。どうやら子ども時代の写真を拡大して張っているようです。 「こんなに大人になったよ」と道で眺める人にアピールしています。みんなが被る船員帽は卒業記念の帽子。高齢者の家に行くと、 よく孫の写真が飾ってありますが、この帽子を被った写真を沢山見かけました。
研修生の池田めぐみさんがホームスティしているオケソン家のお嫁さんと孫のヴィクトール君にばったり会いました。 一家で行進を見物にきていたのです。小学生のヴィクトール君もいつかこの行進をするでしょう。 エスロブ市には各世代が生きている実に健康な町だと思いました。狭い町なので、どこかで必ず知り合いに出会います。 この行進が終わると学生たちは家に帰り、家族とお祝いの夕食をともにします。それから、また、学生たちは集まり、 夜中までドンチャン騒ぎをするのだそうです。
2006年06月18日 04:35 | 投稿者: rumi | コメント (0)
人口975人の町の喫茶店
6月14日(水曜日)
ロベロという町の「高齢者特別の家」を見学した後、近くの喫茶店に入りました。 エスロブ自治体の北の村、ビリンゲが鄙びていていかにも田舎というのに比べ、 同じ自治体でも南東のロベロはどこかエレガントな風情です。この喫茶店は1874年に始まった老舗。開店当時、 喫茶室は男性用と女性用とに分かれていたそうです。現在のインテリアは1950年代のもの。浅草に残るレトロな喫茶店にも似ています。 お店で売っているパンとケーキが美味しそうなので、さっそくパンを買い、学生寮で冷凍にすることにしました。写真はオーナーの女性、 彼女の義理のお父さんを39年前から手伝っています。小さな村や町が発展する過程で、そこにどんな文化的背景を持った人が住みついたかで、 町の風情が違ってくるのでしょう。この洒落た雰囲気はどうやって生まれたのでしょう。
驚いたことに、こんな小さな町にもタイ料理の店を発見(下の写真)。 スウェーデンでは中華料理よりタイ料理が好まれます。今から37年前の友人の話を思い出します。 清泉女子大学英文別科の級友で仲良しの横山桂子さん(旧姓下村)さんは当時JALの国際線のスチュワーデスでした。 彼女が私にお土産に買ってきてくれたのがタイ製の木のサラダボール。その時の彼女はこんなことを言いました。 「タイの人々はスウェーデンから木工を習い、お土産品にして売っているのよ」。スウェーデンは当時からタイとの交流があったのでしょう。 貧しかったタイの人々に職業訓練をしていたのでしょう。そのサラダボールは今も重宝して使っています。スウェーデンでは今も木工が盛んです。 両国の絆は強いのです。津波の時も沢山のスウェーデン人がタイにいました。スウェーデン人ほどタイにあこがれる国民はいません。
2006年06月18日 00:30 | 投稿者: rumi | コメント (0)
やっと見つかった町医者
6月14日(水曜日) ロベロ続き
人口945人のロベロの町の医療を支えているのは、プライベートドクター。つまり町医者です。 写真の建物がエリケという高齢者特別ハウスの隣にある、薬局(アポテークと言います)が併設されたクリニック。やっと、 町医者の居所を見つけました。といっても、ご本人にはまだ会えません。建物を見ただけ。インタビューに何とかこぎつけたいものです。 とにかく、エーデル改革以降、スウェーデンでは介護の現場から医療が切り離されました。 これを簡単に日本に取り入れられては現場が混乱します。
私の母は田園調布博愛医院の柳沢徹先生に在宅の往診をしてもらい、パリアティブケア(終末期)を受け、 在宅で亡くなりました。それを支えたのが田園調布医師会訪問看護尾ステーションのチーフ、 宮近さんや只野さんをはじめとする看護師さんたちです。地域の医療に支えてもらいました。 母の介護を11年間してくれた大田区福祉公社の協力会員だったSさんが認知症になり、そのSさんを現在支えてくれるのが、 コダマクリニックの木之下徹先生。木之下先生を紹介してくださったのが、藤田和丸先生。 和丸先生は柳沢先生と一緒に世田谷大田の両区にまたがる在宅を支える介護医療関係者の「在宅ケアを語る会」を主宰して、 情報交換や勉強会を続けています。この数年、訪問診療をしてくださるお医者さんが増え、ずいぶんと便利になりました。ところが、 今度の医療改革ではこうした行動的な町医者のやる気に水を差すようなもの。
スウェーデンを調べていると、厚生労働省がスウェーデンをモデルにしていることが良くわかります。 似ている言葉やアイデアが沢山あります。しかし、スウェーデンが目指すのは、人間としてこの世に生まれたことを尊ぶこと。 ワールドカップではないけれど、「世界でいちばん人間的な生活ができる国」である名誉をかけて社会保障の充実を目指しています。しかし、 同時に1992年以降に拡大した経済不況を克服した合理化の努力もすごい。 人間の尊厳と合理化の2つをなんとも上手くマネジメントしています。
町医者の話から思わず方向に話が発展しましたが、日本の医療改革を考える時、 スウェーデンの合理化だけを真似して取り入れられては困ると思います。このままだと、現場で働く人々が困惑し疲れきってしまいます。 高齢者を支える人々の労働環境が充実しないで、どうしていい介護を提供できるでしょう。 社会保障審議会の25人の委員の14人が大学先生たち。奥田経団連会長と、労働組合の代表が1人。県と町村の代表が1人ずつ。 医師の代表が3人。ジャーナリスト、エッセイストが1人ずつ。この方々の中で、一般の国民の利益、 介護現場で働く人々の利益を代表するのは誰なのでしょう。もともと社会保障審議会は労働者と経営者と政府の3者によって構成されるはず。 日本では労働組合の力は弱体化しました。介護労働者の意見が法律に反映する必要があると思います。
2006年06月18日 00:17 | 投稿者: rumi | コメント (0)
人口975人の町の高齢者特別ハウス
6月14日(水曜日)
エスロブ市内から車で30分ぐらい南東に走ると、ロベロというエスロブ自治体の町があります。 人口が975人のこぎれいな町です。今日は前から行きたいと思っていた、この愛らしい町にふさわしいエリケという名の「高齢者特別の家」 に行きました。研修生の池田めぐみさんの研修に便乗。麻衣子さんも参加です。写真をたくさん撮ったので、 帰国してからお見せしたいと思います。入り口の鉄の扉は認知症の方にはちょっと難しいカギがついていますが、威圧感がありません。
この特別の家は1968年にでき、93年に改築されました。入居している高齢者は37人。 他にグループホームと訪問介護ステーションが併設されています。上の写真は入ってすぐにあるレストラン。地元の方も楽しめます。 可愛く温かく清潔、ホスピタリティに満ちた空気がありました。下はちょっとしたコーナーにある暖炉。冬には火が入ります。 水と緑と火は人のいのちを癒す大切な要素。
クリスティーナさんの説明で建物の中を見学していたら、アランさんという90歳の入居者に会いました。 入居する前から乗っている自家用車。足が不自由になってからでも、外出が自由です。
右折左折が矢印の表示を押すだけででき、カギがかけられます。車を降りてから部屋に入るアランさん。 ちょっと危なそうですが、ポストに手をかけ伝い歩いて部屋の中にある椅子に移動しています。この椅子は座るだけではなく、 歩行器にもなっています。こうしたアランさんの自立は作業療法士の指導によるものです。
ところで、このエリケという高齢者特別の家のマネージャーはアイリン・ソメルスさん。写真の方です。 ほとんど会話は交わせませんでしたが、笑顔が素晴らしいというのが第一印象。肝っ玉母さんという感じの方でした。
2006年06月17日 07:49 | 投稿者: rumi | コメント (0)
バスで日帰りの旅
6月13日(火曜日)
今日はセカンドハンドショップでボランティアをしている人たちの慰安旅行。できる限り、 書くための時間を捻出したいところですが、クリスティーナさんが「歴史に興味があるあなたには最適な旅」というので参加しました。 スコーネを横断して、バルト海側に出る小旅行です。今日はクリスティーナさんは仕事で参加できず、その分、 夫のヴァントさんが頑張って気配りをしています。いろいろな説明があったけれど、残念ながら、あまり、判りません。しかし、 こちらの高齢者はこうしたスコーネの歴史探訪の旅をよくするようです。写真は日本のような松原風景。向こうに海が見えます。 バルティック艦隊で有名なバルト海、向こうにはバルト3国やフィンランドがあり、その向こうにロシアがあります。
下は山の中の農家、かやぶき屋根でどこか日本の農家に似ています。家の中にはかまどがあり、 この火で料理を作り、パンを焼き、部屋を温めていました。昨日あまり寝ていないので、このあたりからかなり眠くなりました。言葉がわかれば、 きっと、面白いのだろうけれど・・。下の写真は、バスがセカンドハンドショップに到着して、三々五々、帰るシーン。 写真のサングラスのブリッタ・スベンソンさんは今年80歳。1人暮らしです。若いなあ。
2006年06月17日 06:55 | 投稿者: rumi | コメント (0)
日本サッカーの夜
6月12日(月曜日)
観ることができないとあきらめていたサッカーをテレビで観戦しました。 川口の完璧なゴールキーパーの姿に心が高揚しました。スウェーデン語で「カワグチ」と何度も解説されているのを聞きました。 防戦している度に誇らしく思いました。 オーストラリアチームのレスリングのようなサッカーに日本の痩身のサムライががんばっているのが嬉しく、大きな拍手を1人でしました。 最後が残念だったけれど、サッカーもここまできたかと思いました。数年前を思い出して。
国際試合はいい勉強になります。私もエスロブ市で国際試合・・とまではいかなくても、少し、 がんばっている、と自分に言い聞かせています。疲れると英語がしどろもどろになる。インタビューのテープを聴きなおしていると、 勘違いもあるし、同じことを何度も聞くし、情けないけれど。
サッカーのこの夜、学生寮の庭では大音響が聞こえます。6月は卒業シーズン。 明日から三々五々ここを去る学生たちは最後の夜を分かち合っていました。今日は寝られないだろうと覚悟して、 遅くまでパソコンに向かいました。時々、ドアーをあけて外を眺めると、「一緒にワイン飲まない」と誘われます。どうも、 この仲間には最後までは入れなかったです。でも、言葉を交わす子がいたので、いつかとても懐かしいと思うでしょう。それにしても、 去年の8月末は彼らがここにやってきて、毎晩、ドンチャカ騒ぎでした。それが、冬は静かで、この夏も静か。たぶん、 みんなで仲良しになる過程だったのでしょう。とうとう、この日は私も眠れずに気が付くと午前4時。外はすでに明るくなっていました。
2006年06月17日 06:26 | 投稿者: rumi | コメント (0)
突然の夏
6月12日(月曜日)
昨日あたりから、気温が高くなってきたと思ったら、今日の町は夏の景色に彩られています。 生き物のように町は日々姿を変えています。5月15日にこの町に着いた時にはお天気予報は摂氏10度でした。それが、昨日、 今日は30度ぐらい。北国の春は突然来て、あっという間に夏になるといいますが、まさにその通り。 スベンソンという唯一のシティホテルのある広場のアイスクリーム屋には列ができています。この数日、部屋にこもっていたので、 太陽が目にまぶしいぐらいです。
写真は学生寮の近くの家の石楠花の花。エスロブにはずいぶんこの花を見かけます。日本にはない色です。 学生寮の学生たちも明日の火曜日にはここを去っていきます。明日から夏休みの始まりです。荷造りをしながらくつろいでいる顔見知りたち。
東京にいた時、スウェーデンに6月に行くと話すと何人かの方から「ミットサマーですね。 楽しんでいらっしゃい」と言われました。高校の英語の本にアンデルセンの「醜いアヒルの子」が載っていて(もちろん英語で)、 その書き出しは「それはミットサマーのことだった・・」でした。英語の辞書を引くと、ミッドサマーは夏至とあり、6月21、 22日頃とありました。今年は24日が夏至で、23日はイブだそうです。日本では梅雨の時期で日照が少なく、肌寒いこともある季節ですが、 それこそ、急に真夏がやってきたのです。
数日前から、学生たちが部屋の掃除をはじめ、荷造りが始まっていました。あまり、 交流は無かったけれど、ちょっと、淋しくなります。台所の使い方がひどくて、学校では、こうしたマナーを教えなかったのかとあきれました。 パスタがこびりついたなべが何日も放ってあったり、冷蔵庫の牛乳が飲まれていたり、あきれることも多かったけれど、 なんだか憎めない子たちでした。去年の8月23日頃、近隣の県からこの国民高等学校に集まってきました。20歳を過ぎて、また、 学びなおしている若者たちです。しかし、ほとんどの子に聞くと、就職先は決まっていません。 スウェーデンでは98年に見事不況は克服したものの、合理化が進み、失業率は4%というものの、定職につけない若者が多いのです。 仕事に就くには、学び続け、資格や学習をすることが必要で、若者には厳しい現実が待っています。
2006年06月17日 06:25 | 投稿者: rumi | コメント (0)
庭で食事
5月9日(金曜日)
バリアという線路の向こう側にある地区のスーパーで買い物をするクリスティーナさんと麻衣子さん。 今日の私は、朝8時の訪問介護のインタビューを済ませて、自室で仕事をしてから、1時にクリスティーナさんが車に乗り込みました。 なかなかクリスティーさんの家に伺う時間が取れませんでした。彼女の夫のヴァントさんが手塩にかけた初夏の庭を見るのが楽しみです。 2月3月の滞在では一面の雪だった庭がいい香りのする夏の庭に変わっていました。今日のメニューは「ヤンソンさんの誘惑」 というスウェーデンの料理。ジャガイモとアンチョビのグラタンとサラダ。 ちなみに19世紀から20世紀にかけてのスウェーデンの凶作を救ったのはジャガイモとも言われています。
ヴァントさんとクリスティーナさんが結婚してから、耕し始めた農家の荒れ果てた一ヘクタール耕地が、 7年かけて現在の姿に変わりました。「秘密の花園」という英国の児童文学の庭のように(もう少し野趣があります)、人を癒してくれる庭です。 ヴァントさんの今年の庭の目標はバラの棚。この写真では柱しか見えませんが、ヴァントさんはバラの棚を大工仕事で作りました。 一重の素朴なバラの苗が少し伸びているところが上の写真です。下は2人の手作りの東屋の前にいるめぐみさんん、麻衣子さんと私。
あずまやの中で夕食が始まりました。シンプルだけれど豊かなメニュー。 外は5時過ぎなのに真昼間の明るさ。食事が終わるとヴァントさんがお皿を片付けてくれました。こちらはサラ洗い機がある家が多いようですが、 クリスティーナさんの家は手洗いです。私たちがクリスティーナさんと打ち合わせをしていると、 お皿を片付けたヴァントさんが早速庭仕事を再開しました。夕方の庭仕事は気持ちがよさそうです。前にヴァントさんに 「荒れた土地をここまできれいにして、よく働いたのですね」と話したら、「スモーランド人はよく働くんだよ」という答えが返ってきました。 実際、バルト海に面したスモーランドは岩盤が下にあるので、土地が肥えているスコーネより、農業の条件が悪いそうです。その分、 スモーランドの人は良く働くと言われています。たしか、ニルスの不思議な旅でも地理的な説明があったと思います。 19世紀から20世紀にかけての150万人のアメリカ移民の大部分がスモーランドの人々だったそうです。 スモーランドは森の木を使いガラス製品を沢山作ってきました。私は銀座和光で長年働いていましたが、 入社してしばらくたった昭和44年ごろから、お店では北欧のテーブルウエアを大々的に取り扱いはじめました。 オレフォースやコスタボダはヴァントさんの故郷スモーランドの製品です。
帰りはワインを飲んだためにいつものように車で送ってくれるのではなく、 クリスティーナさんが歩こうというので、クリスティーナさん夫妻とめぐみさん、麻衣子さんと5人で1時間ぐらいの道を市内まで歩きました。 夕日が目の前に輝いていました。ヴァントさんが「あのくらい下に下りている夕日の位置だとかなり北によっているよ」と教えてくれました。 つまり、夏至が近いこの季節、太陽は西に沈まないということを知りました。天体に興味のある小学生の男の子が喜びそうな話です。
2006年06月17日 03:55 | 投稿者: rumi | コメント (0)
訪問介護の責任者 カメラ・プレソンさん
5月9日(金曜日)
朝8時、訪問介護の南地区の責任者カメラ・プレソンさんの事務所に行きました。 北地区の担当のポールさんは「静」という存在なら、カメラさんは「動」、はちきれそうに元気な38歳の女性です。 彼女はもともと日本でいうケア・マネージャーの仕事をしてきて、社会学を大学で修めきた人です。法律の勉強もその後して、ヤートさんと同じ、 クリファンスタという町の看護学校でマネージャーになる勉強もしてきました。3人のお嬢さんのお母さんでもあります。 インタビューではかならず、キャリアを聞くことにしています。
この町の訪問介護ステーションは5つ。こんな単純なことですが、5ヶ月滞在してやっと解明しました。 麻衣子さんとは謎解きだと良く話します。東京の大田区のホームページではこんなことはすぐにわかるのですが、 この町の高齢者福祉をトータルに紹介する英語の書類がないためにわかりませんでした。私の集めた情報では6つでしたが、 一つ減ったこともこのインタビューで解明しました。カメラさんは実に親切で彼女が書く報告書のコピーまでくれました。 この報告書にはまた驚き。実にシンプル。一目でわかるとはこの書式をいうのでしょうか。
カメラさんは食事の配達サービスとホームヘルプサービスの責任者でもあります。 写真はカギを自分で開けられない高齢者のための冷凍調理のパッケージ。アンダーナース(准看護師・介護士)が訪問時に直接届けます。 カギをあけられる人にはランスコーネという町の業者から直接届けられます。ホームヘルプサービスの方は掃除と洗濯。 このように介護者の仕事がケアと医療的な手当てに向けられました。掃除、洗濯はその担当のアンダーナースがしています。何から何まで詳しく、 シンプルにわかりやすく説明してくださり、沢山の疑問が解明しましたインタビューでした。
帰る時に、カメラさんのポストに一枚の紙が入っていました。隣の部屋のイボンヌさんというケア・ マネージャーさんからの新しい利用者の方の書類です。ケアを提供するカメラさんと、 サービスの内容を指示するイボンヌさんの仕事は棲み分けされています。日本の介護保険はスウェーデンをモデルにしているのです。 それにしても、日本のケアマネージャーの苦労は大変です。さっそく、隣の部屋のイボンヌさんにインタビューを申し込みました。
2006年06月17日 02:09 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブの看護師の責任者モッラーさん
5月8日(木曜日)
小林亜子さんと1時間半のお昼を済ませた後、通訳のシーマさんと待ち合わせて向かったのが、ヤート・ モッラーさんの事務所。ヤートさんはエスロブ市にいる35人の看護師の元締め、マネージャーです。 2003年1月からエスロブ市の高齢者福祉の運営システムが変わり、各部署で抱えていた看護師が、一つの組織に集合。 ヤートさんの元から訪問看護、施設の看護に派遣されていきます。高齢者の特別の家(施設)には看護師が常勤していないのです。 それはアンダーナースという医療の勉強をした介護士が介護を担っているからです。 看護師ステーションとヤートさんの事務所は別の建物にあります。ヤートさんの事務所の隣は訪問介護の責任者のカメラ・プレソンさんやポール・ シュワコビッチさんと隣り合わせています。
看護師の活動に関しては、数字的なこと意外はこのインタビューからはあまりつかめませんでした。一度、 医師に近い活動をしている地区ナースに会いに行こうと考えています。ヤートさんはスウェーデンを代表するハードルの選手でした。 今も走っているし、スウェーデンの公認コーチとして400mと800mの女性アスリートを育成しています。 看護師との2足の草鞋を履きながら、福祉のマネージャーになる勉強も重ねてきたのです。通釈のシーマさんが、 クリファンスタというスコーネの町に看護学校があり、そこで、福祉責任者の養成もしていると聞きました。
2006年06月17日 01:35 | 投稿者: rumi | コメント (0)
大田区北嶺町生まれの小林亜子さん
6月8日(木曜日)
小林亜子さんからメールが届いたのは今年2月ごろ。彼女はルンドの国民高等学校(ピープルズ・ ハイスクール)で1月からスウェーデン語を学んでいる26歳の女性で歯科衛生士です。 小さな頃からの外国語を学ぶという夢をスウェーデンで実現し始めました。インターネットで6月に卒業した後の学校を探しているうちに、 亜子さんは私のブログに行き当たり、メールを送ってくれました。今年の8月からはエスロブ市の国民高等学校でさらに勉強を続けます。 麻衣子さんと一緒です。私が寮だけ借りている学校です。
なかなか、会えませんでしたが、帰国する前日に亜子さんはルンドからエスロブまで来てくれました。 驚いたのは、彼女はつい最近まで大田区北嶺町、私の家から5分の所に住んでいました。駅のそばの鶏専門店の脇の小道を入った所です。 私が時々行く「嶺の灸鍼堂」の黒田マリさんのことも知っていました。
年頃の亜子さんは、友人が結婚し、子どもができていく中で、
みんなとは違う道を歩み始めたことをちょっと心配していました。そんな亜子さんに私は「人生は一度しかないのだし、
若いというのはまだやり直せるの。まだまだ若い。亜子さんらしい人生を掴み取ってみたら」とアドバイスしました。そんな私も
「59歳という年をも省みずスウェーデンに取り組んでいることを思うと、時々、馬鹿ではないか、なにしているの・・と自問します。」
と書いたことに関して、73歳の竹内啓介さんから、素晴らしいお叱りの言葉を受けました。
竹内さんは59歳でそんなことを言ってはだめとおっしゃいます。竹内さんいわく「私は、
60歳から一段格上の社会貢献をしていただかなければならないと考えているものです。60代は、
それまでの豊富な経験と的確な判断で社会をよりよい方向にリードしていただかなければならない年代なのです。私は71歳ですが、
パラオの自動車リサイクルに関するコンサルタントを買ってでています。いろいろ企画を進めています。
今日も大阪の廃棄物学会で講演して帰ってきたところです。73歳までは、がんばるぞと自らに叱咤激励しているところです。
59歳のあなたには、大いに頑張っていただきます。期待しています」
竹内さん、ありがとうございます。そして、亜子さん頑張れ!
2006年06月17日 01:07 | 投稿者: rumi
還暦まであと1年です
6月7日(水曜日)
今日は私の59歳の誕生日。朝8時に携帯が鳴りました。 受話器の向こうで夫が歌うお誕生日の歌が聞こえてきました。私の兄姉は早世したので、こんなに長生きをしたのは私だけ。 長い独身生活を送った私ですが、受話器の向こうの声をありがたいと感じ、早く亡くなった4人の分を生きているのだと思いました。 外は気持ちのいいお天気でした。
お昼にドアーがノックされたので開けると、麻衣ちゃんがワインと誕生カードを持ってきてくれました。
3時からスタファンさんのインタビューを2時間ほどして、その足でプレソン家、ヴィンセント君の家に行きました。
「僕の家族が誕生祝をするから、いらっしてください」というお誘いを受けたのです。彼のおばあちゃんのウラさんも来てくれ、
お天気がいいので、庭にテーブルが用意されました。
夕方の6時だというのに、真昼間のように外は明るいのです。お料理はパスタサラダとギリシャチーズを焼いたもの。皆さんがテーブルを囲み、
一人座る私にスウェーデンのお誕生日の歌を歌ってくれました。とても、シンプルだけど、じわじわと心が温まる場面でした。
2006年06月15日 16:06 | 投稿者: rumi | コメント (0)
田舎道を歩け歩け
6月6日(火曜日)
今日はスウェーデンの建国記念日。 エスロブ市の国民健康プログラムを推進するオフィサーであるクリスティーナ・ウォーミングさんの声かけで、 自治体の北にあるビリンゲという人口484人の村に17人の人が集まり、1時間ほどウォーキングコースを歩くというイベントがありました。 ビリンゲは昨年秋と今年の2月に在宅介護の取材に来ています。スコーネ地方の田園風景が残る村です。最初の写真は1739年にたった農家。 どこか日本の東北地方の長屋に似たかやぶき屋根のつくりです。
写真は日本からの研修生の池田めぐみさんがホームステイをしているイングリッド・オケソンさん。 足の手術をしたというのに元気に歩いています。歩行器を使う高齢者の方も最後まで歩きました。最後に軽くお昼を食べて、解散。この数日、 パソコンの前に座っていたので、気持ちがよく過ごせました。今日は短い文章で。
2006年06月10日 06:04 | 投稿者: rumi | コメント (0)
麻衣ちゃんは同志
6月2日(金曜日)
「るみさん わーい!わーい! SFIの試験に全部合格して卒業しました!!わーい! 今朝、 一番に会話のテストも受けて今日でテスト終了・・」と書いた星名麻衣子さんからのメールが、パソコンを開いたとたん目に飛び込んできました。 私の方も今週の5つ目のインタビューが終わりほっとした所。25人中10人しか受からなかったそうですが、 彼女のこの1年間の苦労を知っているだけにこちたも「わーい わーい」と嬉しくなりました。昨年の6月の中旬からエスロブ市に、 高齢者介護の研修生としてたった一人で滞在、始めの数ヶ月は孤独、さらに語学や文化などの壁にぶつかりながら頑張って、 途中からスウェーデン語を学び始めきました。SFIは移民の人々などに、無料でスウェーデン語を教える学校。 彼女はずいぶん話せるようになりました。
国民学校と呼ばれる成人のための学校の入学も許可され、8月中旬からは、 スウェーデン語をさらに1年間学ぶ予定です。こちらに滞在して、アンダーナースの勉強をするには、語学が必要と思い、 留学を延長して学ぶ決断をしました。
そんな麻衣ちゃんとは苦労を分け合った仲。母と娘ぐらいの年の差がありますが、
私は同志のように思えてなりません。麻衣ちゃん、おめでとう。
2006年06月10日 05:16 | 投稿者: rumi | コメント (0)
福祉部門のマンパワー
6月1日(木曜日)午後
市庁舎のオフィスの一隅にマンパワーの部署があります。マンパワーとは、
エスロブ市の福祉部門で働く職員(管理職をのぞく)が休みを取る時、その代替で働く人材を送る部署です。休みとは
病欠が主ですが、友達と会ったり、キャリアアップの勉強に使ったり、長期の夏休みなど。従業員にとって遠慮なく休暇が取れるともに、
スタッフの休みのために余分な人員を抱えなくてもすみます。2002年にプロジェクトチームができて企画されました。それまでは、
それぞれの部署で休みの応援要員を抱え込んでいました。
ここには常勤のスタッフと契約のスタッフがいます。常勤スタッフは30人。オーダーがあれば、 高齢者の特別住宅(施設)であれ、在宅介護、障害者の支援であれ多方面の仕事をこなせるエキスパートを揃えました。 スウェーデンではスタッフのサラリーの差が少ないそうですが、普通の施設で働くより、5~7万円ぐらい高くなります。 働く箇所は50箇所もあります。契約スタッフは、それぞれの職場に自分の名前を登録しておきます。上の写真はオペレーレィングルーム。 ここには2人の電話受付スタッフが働いています。
写真はユニットマネージャーのクリスティーナ・カースソンさん。気さくにいろいろ教えてくれました。 彼女は2002年にプロジェクトのチームから指名されて、この仕事につきました。当初の運営方法でスタートしたものの、ずいぶん、 やり方を変えたと語ります。そして、マネージャーとして何から手をつけたかというと、スタッフとよく話し合ったことだそうです。 会議の時もあれば、個人的な話し合いを重ね、仕事の運営方法を開発しました。また、教育にも力を入れたそうです。
もう一つ、興味深かったのは、行政スタッフの派遣です。 エスロブ市の高齢者部門には11人のマネージャーがいます。このマネージャーの経理・秘書業務を5人の優秀なアシスタントが行っています。 この人たちもクリスティーナさんの所から派遣されています。写真のブリギッダ・グラッドさんは、 シャラオークラという高齢者の総合施設で働き、高齢者の特別住宅のマネージャーのリスベクツさんと、 リハビリのマネージャーのスタファンさんの2人の仕事を担当しています。
下の写真はスーヘランという高齢者特別住宅で働いていた、パレスチナから来たマルワンさん。 彼はクリスティーナさんの30人の精鋭スタッフの1人です。彼がいい仕事につけて、私はとても嬉しくなりました。とにかく、 6人の子どものお父さんですから。
2006年06月09日 19:31 | 投稿者: rumi | コメント (0)
雇用の創出が福祉のリソース(資源)
6月1日(木曜日)
今日は「“Gunel・グンネル”の日だから、グンネルに会ったら最初にそのことを話すといいわよ」 とクリスティーナ・ウォーミングさんがアドバイスをしてくれました。欧州では365日に、キリスト教の聖人の名前がついていて、 今日はグンネルという聖人の日だそうです。スウェーデンではもちろんルーテル派の聖人でしょうが・・。 今日は市庁舎で2回のインタビューする予定。午前中は、行政部門で働く、グンネル・へリストロンさんに会いました。彼女の仕事は市の貿易・ 観光・産業を担当する責任者。といってもたぶん部下はいなく、エスロブ市に3000社ある企業の窓口を1人で勤めています。 市庁舎の2階に行政部門のオフィスがありますが、長い廊下には個室が連なっているだけ。1部門1人が責任を持ち働いています。 秘書はいるようですが、数は多くないようです。
人口3万人と言われるこのエスロブ市に初めて足を踏み入れた時、 この素晴らしい福祉の財源となる産業はどうなっているのだろう。農業だろうか。商店の数は少ないし、企業といってもあまり見かけないし・・。 と大きな疑問を持ちました。私の学生寮がある旧市内は、60年前に建ったという、 日本でいうと田園調布が貧弱に見えるぐらい立派な家々が残っています。住人は変遷しているようです。しかし、ここに家を建てた人たちは何でお金儲けをして、こんなに立派な家に住めたのかは、大きな謎でした。 どこを歩いても、この町にはお金儲けの場が見当たらない・・。
ところがある日、見落としていた地域があることがわかりました。 線路をはさんで向い側のバリアという地区です。ここは奥行きが広いことがわかりました。そこである時、 探訪してみるrと実にたくさんの工場があるのです。小さな時、私が生まれた東京大田区には、住宅地の隙間に小さな工場がありました。 スウェーデンでは工場は1地域にまとまっているのです。バリアの工場地域は富士の裾野の樹海とまではいかなくても、広いのです。 私はこれらの企業のことが知りたくなりました。そこで、あるパーティであったグンネルさんに会いたくなったのです。
話は変わり、グンネルさんは、私と同じ1947年生まれですぐに59歳。スウェーデン最大の湖、 ヴェーネルン湖の南にある町の出身です。ルンドにある秘書学校で勉強をしたのち、1969年からの秘書業務を皮切りに、 今の職を得る前はアッカ・マンという大手企業のセールス・プロモーションや広報担当を長年担当し、キャリアを磨いてきました。 専門的知識はどうやって勉強したのかと聞くと、マルモの単科大学の講座で、休みの日に勉強したという答えが返ってきました。 マルモはスウェーデン第3の町で、エスロブ市から電車で40分ぐらいの町です。
写真は今年3月8日にこの地区を1人で探訪したもの。まだ、雪が残っていました。交通の要所であり、 地価も安いエスロブ市には外国企業も含めたくさんの工場が集まりました。「たくさんの会社があります。 オーナーはスウェーデン人ばかりではありませんが、エスロブに住んでいる人も多いので理解はしてくれています」。 スウェーデンでは日本と同じように安い労働力を求めて企業が外国に工場を作る傾向があります。「ボルボ(世界的な自動車企業) の農業耕作機の工場もエスロブから韓国とドイツに移りました」とグンネルさんは語りました。何しろ、 スウェーデンでは企業の従業員への社会保障の負担も高いので、人件費は高くなり勝ちです。 2時間のインタビューはとても情報が詰まっていました。
スウェーデンでは企業が払う税金は国に集まりますが、 市民が払う税金が地方自治体の財源になるわけです。エスロブ市の収入の58%が市民税。「企業が市に集まる効用は、市が活力を得ること」 とグンネルさんは語りました。つまり、市民税を払う人が増え、エスロブ市に人々が住みたいと思い、税が集まる。福祉の財源が増える訳です。 雇用の創出が福祉の充実につながるのでしょうか。
2006年06月09日 05:15 | 投稿者: rumi | コメント (0)
選挙運動が始まっています
5月31日(水曜日)
9月16日はスウェーデンの総選挙の日。日本と同じ9月です。テレビでは、毎日のように政治に関しての番組が組まれています。
辞書を引きながら、これは国会中継だとか、社会民主党の議員が話しているのだとか、5%ぐらいの理解ですが、
テレビという窓を通してこの国を眺めています。午後、政治家にインタビューしました。
今週は5つもインタビューをしますが、2つ目の取材です。写真は右派
「Moderat:穏健党」
のエスロブ市の事務所のショーウィンドウです。ここで午後4時にエスロブ市穏健党のボスであるミカエル・クォーツマンさんに会いました。
彼は、今、レジオンスコーネ(スコーネ県)の議員です。今回の選挙では市長の座を狙っています。
事務所のカギがしまっていたので、ドアーの前で待っていたら、長靴を履いたおじさんが親しげな笑顔でやってきて、それがミカエルさんでした。
愛嬌があり、温かなタッチの人でした。
ミカエルさんにインタビューをしたのは、地域医療センターを調べていたら、もう少し、詳しく、医療事情を把握しなければと思ったからです。
前回インタビューした看護師さんからは、数字が把握できなかったので、クリスチーナさんがそれならと、県議会議員の彼を紹介してくれました。
つまり、県予算の85%が医療費。県議会議員の仕事イコール医療だからです。
スウェーデンでは、1992年のエーデル改革で、医療は県が、福祉・教育・地域社会・ 介護は自治体が責任を持って運営することになりました。改革後、今年で14年がたちますが、私が見た限りでは施設ケア、訪問介護、 看護の場でお医者さんに会いません。お医者さんは県に属し、市にはお医者さんがいません。内科医のプライマリケア(初期医療) はエスロブ市に3つある県の地域医療センターで行い、エスロブ市には病院がありません。専門的な医療は隣町のルンドにある大学病院と、 2つの県病院に行きます。歯科、眼科、耳鼻科、皮膚科などのトクターは、一箇所に固まっています。 地域には私立のクリニックがあるようですがどういう存在するのか、これから確かめてみるつもりです。話を聞くだけではなく、 実際にその場に行き、自分の目で確かめる作業が必要です。お医者さんにインタビューしたいのですが、近々、地域医療センターに行き、 相談してみるつもりです。2005年の医療関係の資料を求めた私にミカエルさんは、 用意すると言ってくれ、6月8日に会うことになりました。医療と政治の仕組みは別の機会にお伝えします。
帰り道にいつもこの事務所はなんだろうと思っていたショーウィンドウをよく見たら、 社会民主党の事務所だとわかりました。各政党は企業で言えば、 CI (コーポレイト・アイデンティティ)のようなことをやっていて、 シンボルマーク、ロゴタイプ(党の名を表現する活字のデザイン)、テーマカラー、販促グッズ(バッジやキーホルダーなどの小さなお土産)、 立候補者の写真などがウィンドウに飾られています。右派と左派の違いは、小さな政府と大きな政府の違いのようです。 左派で政権をとっている社会民主党はできるだか公営がいいと考えているそうです。一方、右派は民営の活力を入れたい考えです。民営といっても、行政の枠の中ですべてが行われるので、日本の民営とはだいぶ違います。 政治のこともこんど書きますね。
2006年06月08日 18:21 | 投稿者: rumi | コメント (0)
美しく賢いマネージャー、マリさん
5月30日(火)
この日、私は高齢者特別住宅のマネージャー、マリ・ペトコブスキさん(写真)にお会いしました。
前回までの2回インタビューの内容確認です。大変忙しい方ですが、時間を空けてくださいました。
マリさんは樋口恵子さんがいらっした時にも案内をしています。エスロブ市には市営の高齢者の「 Särskilt boende」、
訳して介護つき特別住宅が6つあります。これまでサービスハウスと書きましたが、これからはこの呼称にします。マリさんは、
その中の一つトルホゴーデンの責任者。1967年生まれで今年38歳になります。
ストックホルムのカロリンスカ医科大学で看護師の勉強をした秀才。カロリンスカ大学はノーベル医学生理学賞を決める大学でもあります。
「私はオンコロジーナースとして、これまで、たくさんパリアティブケア(癌の終末期のターミナルケア)の講義をしてきましたが、
今は夫の仕事の関係でエスロブ市に住んでいます。私のキャリアを知った市からすぐに話があり、この仕事につくようになりました」。
彼女には11歳と9歳と、もうすぐ3歳になるお嬢さんがいます。苗字が珍しいのはご主人のご両親がユーゴースラビア出身だからです。
インタビューをする時、いつもご本人のことも聞くようにしていますが、学歴や職歴を話しても、
個人的なことを話さない方が多いなかで、マリさんは、去年、気軽にプライベートなことも話してくれました。そして、「ルミ、
わからないことがあれば、何度でも聞いていいのよ。いつでも見学していいのよ」と言ってくれました。感激でした。
詳しい経営の数字も教えてもらえました。ざっと、お話しすると、実質、1人の入居者にかかる経費は1ヵ月で38,8万円。この70%
が人件費、19,6%が家賃です。入居者も家賃と食事代、介護費用を毎月支払います。その金額は年収により、限りなくゼロに近い人もいます。
すべては自治体に入る税金でまかなわれていて、何度もマリさんは「税金を使うのだから、最大の効果を出す経営が課題だ」と話しました。
前にも書きましたが、トルホはトロールで森に住むいたずらな妖精。ホは湖、 ガーデンは野原という意味で、この「トロール ホ ガーデン」はトロールの湖の野原という意味です。 エスロブ市は美観地区を高齢者と向かいにある中学校に使ってもらっています。トイレとダイニングキッチンのワンルーム(11坪が平均の広さ) のマンションが70あります。廊下や一階にあるホールやレストランには、亡くなった入居者の遺贈の家具や絵やタピストリーが飾られ、 カーテンや壁の色や素材、採光で自宅の雰囲気を演出するようにしています。
この特別住宅は終の棲家です。つまり、入居者の方々は認知症になっても、 終末期になっても最期までここに続けます。24時間のパリアティブケア(終末期ケア)を受け、亡くなっています。 マリさんは終末期ケアの哲学で、介護者教育を行いながら、経営の腕もふるっています。今、日本では医療改革で、療養型病棟に「住む」 高齢者が行き場を失おうとしています。また、医療保険で経営される老健や老人施設には3ヶ月しか「住む」ことができず、 次の住処を探してくれと家族は言い渡されます。厚生労働白書に連なる言葉はスウェーデンからヒントを得たと思われるものが多いのに、 この現実はなんでしょう。
2006年06月08日 07:19 | 投稿者: rumi | コメント (0)
夏休みに入った男の料理教室
5月31日(水曜日)
今日の水曜日が夏休みに入る前の最後の「男の料理教室」 の日です。前に17日が最後の日とブログに書きましたが、今日がほんとうの最後。 先生のアンブリッドさんがこれから7月の第一週まで夏休みを取るからです。夏休みが長い。それに時期が早い。 アンさんはこの高齢者の集会場で働くエスロブ市の職員で、50%のパートタイム勤務。最初の写真はこの日のクッキングが終わった時に、 男性の皆さんからアンさんに感謝のしるしとして、植木鉢の花が贈られているシーンです。アンさんの休みの間は、男性たちが自主的に運営、 朝ごはんを作って食べるのだそうです。
今日のメニューは「バターケーキ」。 前にアンさんの家に行った時にも同じ料理が出ました。6月はスウェーデンでは卒業式のシーズンで、 この料理がよく出されるのだそうです。薄切りのパンにツナを数種類のクリームチーズやマスタードで合えたクリームをぬり、 3段に重ねます。これをスポンジの台にして、上に海老やカニカマ、白い缶詰のアスパラ、キャビア(もどき)、ゆで卵、 トマトなどで飾ります。昨年の10月6日にトルホゴーデンというグループホームのカリンさんののお誕生日に同じケーキを見かけました。
写真のサングラスをおでこに当てているのがレナートさん。 目が不自由です。 だから、 お皿とグラスは色つきを使っています。それでもレナートさんはこの日もよく働いていました。
樋口恵子さんの通訳をしたルンド大学の多田葉子さんが 「スウェーデンでは男の料理教室はあまり上手くいっていないようだ」とおっしゃっていましたが、私の見る限り、 アンさんの料理教室は成功しているようです。妻を亡くして淋しい思いをしている人や、妻の介護中の男性が集まり、 お互いに慰めあいながら仲良くやっています。この部屋の外のホールではビリヤードのゲームに興じる男性たちがいましたが、気がつくと、 うらやましそうに集まって様子を見にきました。それが下の写真。料理教室は人気があるようで、順番待ちのリストができたと聞きました。ただ、 気になるのは、どうも男は男、女は女でまとまる傾向です。
2006年06月06日 21:37 | 投稿者: rumi | コメント (0)
麻子さんにめぐり合う
5月30日(火曜日)
日本からの研修生の池田めぐみさんとNGOセカンドハンドショップのボランティアを終えたのが、 8時半ごろ。外はまだ明るい時でした。お茶か食事かと思ったのですが、めぐみさんはお腹がいっぱいというし、 ホームステイのお宅まで歩くにはかなりの距離がありそうなので、暗くなる前にと思い、地図を頼りに送っていくことになりました。 初めての道なので、暗い道を一人で帰る不安が胸に湧きました。
ところが、ここからが思わぬ楽しい展開。 めぐみさんのホームステイ先のオッレさんと奥さんのイングリッドさん夫妻の思わぬ温かいおもてなしに会いました。それも、 オケソン家には以前にも2人の日本人がホームステイをしていたのです。その1人が斉藤麻子さん。 斎藤さんとはスウェーデンに来ることが決まってから、六本木のスウェーデン大使館の中にあるSCI(スウェーデンケアインステチュート) でお会いしていました。その後、メールのやり取りをしながら、情報を得た方です。 写真はパソコンで麻子さんの写真を見せてくれるイングリッドさん。
エスロブの人々(スコーネ地方の人々)
はどうしてこんなに生活を手作りするのが上手なのだろうと心から感心しました。オッレさんはペンキの仕事。
イングリッドさんは作業療法士の仕事をしていましたが、今はペンショナー(年金生活者)です。オッレさんの趣味は油絵。
市の博物館でボランティア活動をしています。年金生活者1年生のイングリッドさんは昔から機織の名人でした。
その写真が次の写真。地下には2つの機織があり、小さいほうの右の機織はお母さんが使っていたものだそうです。
トイレにかかっていた麻のタオルもイングリッドさんの手製。手製のジャムを添えたパンケーキとコーヒーをご馳走になり、
12時近くまでお邪魔してしまいました。麻子さんにあえて感激の夜でもありました。
2006年06月06日 07:12 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブを訪れた評論家の樋口惠子さん
5月29日(月曜日)
写真はトルホガーデンというサービスハウスの高齢者の部屋に座る樋口惠子さん。 この日、 市庁舎にクリスティナさんを訪ねると、「あと、15分待てば、コペンハーゲンから日本のグループが到着するわよ」と言われしました。どうも、 今度のグループはビッグらしい。通訳もルンド大学の先生らしい。というので待つことにしました。そこに現れたのが樋口さんのご一行。 皆さんは樋口さんが主宰する「高齢社会をよくする女性の会」のメンバーの方々でした。コペンハーゲンで会議があり、その後、 久しぶりにスウェーデンの現状を知るために、コペンから車で1時間のエスロブを選ばれたわけです。
私も厚かましく、クリスティナさんのレクチャーに参加させていただきました。 これまで4ヶ月調べ上げてきたことの、ちょうどサマリーを聞くいい機会となりました。というのは、今回の通訳として同行したのは、 多田葉子さんというルンド大学の社会学の先生(Assistant teacher)で、訳が明快で実に判りやすかったのです。 私の場合はスウェーデン語という言葉の壁が大きく、英語でスウェーデン語を通訳してくれるシーマさんを通しての内容の理解です。 学究の場に属していないので、理解して、間違いがないかを確認するのに、多くの時間を使いました。しかし、優秀な通訳がいて、 聞く方もきちんとした背景があれば、1時間の取材でかなり、実態を把握できるものだと思いました。やっぱり、違うなと思ったのは、 樋口さんの質問内容。実に的を射た質問をなさっていました。当たり前かな。
樋口さんの隣にいるのは、昨日、エスロブに研修生として到着した池田めぐみさん。 社会福祉士で江戸川区にある「なぎさ和楽苑」という介護施設で働いています。中央競馬会が研修を助成して、毎年、 こうした研修生がスウェーデンを訪れるそうです。彼女は6月16日までエスロブに滞在してから、ストックホルムに発ちます。
樋口さんたちはこの後、歩いて、トルホガーデンのサービスハウスを見学。 最初の写真はその時のものです。私がマネージャーのマリさんに「この方は有名なプロフェッサー」と紹介したら、 樋口さんが困ったような顔をしました。ご本人の目の前で、こういう紹介のしかたは失礼だったかなと後で反省をしましたが、 エスロブに来ていただいたのが、嬉しかったので、お許しを。これだけではなく、こちらにいると、マナーについて考えさせられます。 アテチュード、態度の教育が介護者の教育の大切な項目ですが、いい勉強になることが多いです。
2006年05月30日 19:09 | 投稿者: rumi | コメント (1)
人の気配
5月28日(日曜日)
このところ、お天気がずっと悪く、今日は雨降りで風も吹いています。なんだかブルーな日です。 今日は麻衣子さんに洗濯機の使い方を教えてもらうために、地下の洗濯室に下りた以外は部屋に閉じこもっていました。 洗濯はほとんど部屋で手洗いしていました。たまに洗濯機を使っていたのですが、私が使っていた機械を見て、麻衣子さんから、 それは乾燥機だと言われました。私は全自動の乾燥機つきの洗濯機だと管理人のエバさんに聞いていたような気がしたのですが・・。だから、 上手く使えなかったのでしょうか。
というわけで、今日もパソコンとの日々。夫に健康に悪いよと、怒られそうです。 パソコンは私と日本をつなげてくれる “扉”。この扉を開くと向こうに日本があります。昔、 CSルイスのナルニア国物語のファンタジーに惹かれましたが、パソコンの向こうには日本が広がっています。 夫とのスカイプでの会話もメールもインターネットで見る新聞も。一日誰とも話さない日はパソコンと会話です。人の気配が欲しいところです。
去年からテレビがあるといいなあと思っていました。すると、麻衣子さんから学生さんが300クローネ (4,700円)で自分のテレビを売ると書いたチラシがピープルズハイスクールのレセプションに張ってあった、という情報を得ました。それ! とばかり受付に行くと、エバさんが、テレビなら、ここに一台余っているのがあるから使わない、と言ってくれました。親切です。ICA(イカ) というスーパーの前にある安売りのスーパーでアンテナを買い、とうとうテレビを持てました。すると、 それまでパソコンと私の関係にテレビが入り、三角関係が出来上がりました。テレビはスウェーデンの社会を眺めるもう一つの扉。 スウェーデン語はわからなくても、なかなか、面白い。・・・ということで、29日は1時までテレビを観てしまいました。
ちなみに、この日の食事は豚肉のニンニク醤油焼き、スウェーデンの長葱とマッシュルーム添え。 それに柔らかレタスと太いきゅうりのフレンチドレッシング。シーマさんが焼いてくれたパン。 このスコーネ地方産の豚肉が実に美味しかったです。でも、葱の緑の部分は菖蒲の葉のようにかたかったです。おわり
2006年05月30日 15:00 | 投稿者: rumi | コメント (0)
市場ではいろいろな人に会いました
5月22日(土曜日)続き
突然、イスラムの風景。これはエスロブ市でで開かれている“春の市”を歩いていたら、
マルワンさんの家族に会った時の写真です。彼はパレスチナからの難民。昨年の秋の滞在で、
スウーへランというサービスハウスでアンダーナースとして働いている彼に出会いました。温かな高齢者への接し方が印象に残った人です。彼は、
16歳で難民キャンプから単身ポーランドに渡りました。彼のお兄さんは戦争で亡くなりました。お父さんは彼も戦争に行くことを恐れ、
パレスチナを離れることにしたのです。彼はそれからドイツに移り仕事を身につけながら、最終的にスウェーデンに落ち着いたのです。
SFIという難民のための語学学校でスウェーデン語を学び、その後、アンダーナースの資格を1年半のコースで取得。
仕事を得て働き始めてから、故国に短期間帰り家族を呼び、今の奥さんと結婚しました。今は6人の子持ち。
去年は6人目が奥さんのお腹に宿ったと聞きましたが、その赤ちゃんがこの日、乳母車に乗っていました。
立教大学の名誉教授でホスピタリティ学の大家の前田勇先生は「今、ホスピタリティが残っているのはイスラムの社会」
と私に話してくださいまいたが、マルワンさんの高齢者に接する態度はすばらしかったです。今は、スーヘランから市のマンパワーの部署に移り、
働いています。アンダーナースが病気や休暇で休みを取ると、すぐに、欠員を埋める要員が補充されます。
彼が働いているのはそのマンパワーの部署。即戦力になる人が働いているのでしょう。可愛い奥さんと子どもたちのために、
マルワン父さんは頑張ってます。
しばらく歩いていたら、こんどはマルガリータさんとブティルさんご夫婦に会いました。 このブログでも前にご紹介をしたご夫婦。お2人の生活はよく新聞で紹介されます。マルガリータさんは、 脳溢血で半身不随になった夫の介護を続けています。静かなる介護とスウェーデンでいわれている家族介護のモデルです。 とても前向きで介護のある生活を楽しみ、障害を持った人々のグループ旅行も参加します。ちょうど、初孫が生まれたばかり。 すぐそばにお嬢さんのアンさんの乳母車がありました。市場とは人が集まる場所。そして、人々の生活はとどまることなく刻々変化しました。
ヴィンセント君の学校の先生もお店を出していて、木製の知恵の輪を売っていたので、一つ、 記念に買いました。
2006年05月30日 07:06 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ヴィンセント君と市場に
5月27日(土曜日)
1人で部屋にこもり、翌週に予定されている4つのインタビューの準備をしていたら、ヴィンセント君から
「春の市場が立つから僕の家族と一緒に行きませんか」とメールが来ました。
写真は彼がもし生まれ変われるならなりたいと言っていた侍という字が書かれたお土産のTシャツを着ているビンセント君。
この一年で背も体格も大きくなり、それに、ひげが生えてきたと家族からからかわれています。
町の広場に夏と秋と3回市場が立ちます。エスロブはスウェーデンの中でも「退屈な町」 と昔は言われていたという話を聞きますが、この市場はそんな町の人々の楽しみの一つ。ペルソン家の子どもたちは、 DOMOSというスーパーのキャッシュサービスでお小遣いを下ろします。フィリッパちゃんが下ろしたのは100クローネ(1560円)です。 ヴィンセント君はチェコから両親が移民としてきた友達とお小遣いを下ろした後は市場の雑踏に消えていきました。 フィリッパちゃんもサッカー仲間の友達(フィリッパちゃんは選手、ゴールキーパー)と消え、 お父さんのウルフさんとルードヴィヒ君も雑踏にまぎれていきました。 私はお母さんのカメラさんとカメラさんの友達の3人で市場を歩きました。
2006年05月30日 06:18 | 投稿者: rumi | コメント (2)
生垣と道の草
5月25日(木曜日)
今日は祭日。キリストが復活の後、昇天をした日です。あまり、 信仰が厚いとは思えないこの国の人も祭日は別。家族が集まる日のようで、町の中心部にはまるで人気がありません。 今日から4日間は家にこもる日が続くことになります。朝、起きてすぐにすることはメールのチェック。ところが、 こちらに来たとたんに東京にいた時よりメールが減ります。これが不思議。皆さん、今回は余裕が少しできたので、メールをくださいね。 寮の周りを歩くのが、一番のパソコン漬かりの毎日の肩こり解決法です。
こちらは花の盛り。この季節、いっせいに花が咲きます。町を歩いていて、気がついたのは、 生垣の花と道に咲く草花。今から30年前まで、 私はわが家を出て駅まで歩いていく途中の7,8分間の近所の生垣に順繰りに咲く花を楽しんでいました。もっと、小さい時には、 舗装されていない道に、いっせいに草花が咲く息吹を春になると楽しみました。生きている実感がありました。 その感覚をエスロブで思い出しました。ついつい嘆いてしまいますが、日本は東京に一極集中しすぎて、 わが家の近所の道も川もコンクリートに固められています。ちょっと、退屈な今日の報告です。
2006年05月30日 05:47 | 投稿者: rumi | コメント (0)
美味しいスーさんのご馳走
5月24日(水曜日)
もう、2日分ぐらい食べてお腹がはちきれそうでした。 今日は理学療法士でエスロブ市のリハビリテーションの責任者のスタファンさんの家に麻衣子さんと夕食に呼ばれました。玄関のドアーの外まで、 なんとも美味しい香りが漂っています。サンボ(非婚)の奥さんのスーさんはマレー者出身。ルンド大学で経営の勉強を続けています。アジア、 特に中国とスウェーデンの違いは食卓に並ぶお皿の数でしょう。スウェーデンでは、食事によばれてもメインの料理とサラダぐらい。 前に北京に夫の仕事について行った時には、お皿の数が、10ぐらいは食卓に並んだのを思い出しました。
スーさんはお料理がとても上手で、この日は5皿。チキンを蜂蜜と醤油につけて焼いたもの。 表がカリカリで中がジューシー。その隣がスウェーデンでは見かけない大きなえびと野菜のあんかけ。 緑色はブロッコリーとにんじんなどの野菜炒め。茶色のお皿が牛肉とねぎを炒めたもの。こちらの肉は大きいので、切るのが大変だったそうです。 温熱ガラスのボールにはレッドタイカレーが盛られてい ます。それにタイ米のご飯。ワインはポルトガルワイン。なかなか美味しいワインでした。食後は写真のような肉まん。 3時間もかけてスーさんが皮から作ってくれました。マレーシアでは、朝ごはんから外食だと聞きました。スーさんは、 中国語の料理の本をたくさん買って、こちらに来てから料理を覚えたそうです。でも、もちろん、一番楽しかったのは、 3つの国の習慣の違いを話すなどのおしゃべり。 何よりのご馳走でした。
2006年05月30日 04:07 | 投稿者: rumi | コメント (0)
歩け歩けのグループ
5月23日(火曜日)
これは毎週火曜日に行われる高齢者の集会場のウォーキングのグループが歩いている風景です。 先頭の赤いジャケットの美人がリスさん。カリダールで働くアンダーナースです。彼女は100%の勤務で「オンタンケン(思いやり)」 という名のカリダールにあるショートステイを上司に提案して作りました。今日のウォーキングは12名の参加。 一番若い方がつい最近退職した62歳の女性。他は70代、80代の人々です。リスさんの隣のリネアさんは89歳。目が不自由ですが、 欠かさず、雪の日も参加します。ウォーキングのスティック(スキーのスティック)も白いのを使っています。 このスティックを使いながら歩くと、肩の筋肉を使えて、とても、調子がいい感じです。おしゃべりをしながら、近所を1時間ぐらい歩きます。
今回は、交通事故に4ヶ月前に会った若い女性も参加しています。 彼女は事故の心理的後遺症から復帰するために最近カリダールでボランティアをはじめました。彼女が一緒に歩いたのは、耳が遠いある高齢者。 耳が遠いので、皆さんの歩きながらのおしゃべりに加わりたくないというニーズがあります。 いつも一緒に歩くのはもう1人のカリダールの職員のアグネッタさんですが、今日はその代わりに、 この若い女性が大きな声でおしゃべりをしながら歩いていました。何気ないようでもいろいろな配慮がされていることを知りました。 最後の仕上げはスティックを使った体操。終わると食堂に集まり、お茶の時間と変わります。とにかく、皆さん、よく喋ります。 まるで井戸端会議。去年の4月にエスロブ市の健康プロジェクトの責任者のクリスティーナ・ ウォーミングさんがこのスティックを使い歩くことを推奨し始めていました。すぐに根付いて活動が始まっています。でも、 男性が加わらないのはなぜでしょう。
2006年05月30日 03:32 | 投稿者: rumi | コメント (0)
地域医療センターの役割
5月22日(月曜日)
写真はモナ・マンデルバーグさん、65歳。
つい最近までエスロブ市にある地域医療センターで働いていた看護師さんです。
私の今回の滞在は医療と看護と介護の関係をこの目で確かめること。
この日のインタビューは私の部屋で行いました。エスロブ市には地域医療センターが3つあります。モナさんはその一つ、
トーベルンドと呼ばれる市内の地域医療センターで働いていました。50%の勤務です。日本でいうパートタイムですが、
こちらでは時間が短いだけ、社会保障や仕事への責任はフルタイムとほとんど変わりありません。
地域医療センターの役割は地域の保険とプライマリケア(家庭医のレベルの初期医療)
に責任を持つことです。スウェーデン全体で900ヶ所あります。この他、管区病院が10、県に所属する病院が80。
医療は地域医療センターも含めて県に属しています。自治体には病院がありません。エスロブの人たちは、
救急の場合と難しい病気の場合は隣の町のルンドの大きな病院に行きます。インフルエンザにかかると、ここに予約の電話をかけます。
ちなみに、モナさんのような看護師さんが地域医療センターで電話受付をしています。 これはだいじな仕事で、電話で病状を聞いて、どこに、いつ、診療に行けばいいのかを判断して、振り分ける仕事です。考えてみると、 患者にとっても、医療サイドにとっても無駄がない。合理的な考え方につらぬかれているシステムですが、 どうしたら人間的な対応かがすべて基本にあります。今、日本でも医療改革が進んでいます。合理化という点では似ていますが、どこかが違う。 似て非なるもの。お医者さんがやる気をなくしそうで、とても、心配です!
過去4ヶ月の滞在で気付いたのは、お医者さんの姿を介護の場に見かけないことでした。 高齢者へのプライマリケアは医療を勉強したアンダーナースと呼ばれる介護者が、看護師に相談しながら行います。例えば、 サービスハウスには看護師さんの部屋がありますが、看護師さんは常時待機していません。35人の看護師が自治体で働いていますが、 必要な時に看護ステーションからサービスハウスに駆けつけてきます。お医者さんは1人も自治体に属していません。 看護師はお医者さんに相談しながら、家庭医がするプライマリケアを行っています。 スウェーデンで画期的な医療改革が行われたのは1992年のエーデル改革。それから14年。介護者が初歩的な医療を行うようになり、 医師が介護の場から姿を消しました。
2006年05月30日 02:54 | 投稿者: rumi | コメント (0)
5月のスコーネは菜の花畑がきれい
5月21日(日曜日)続き
南スウェーデン、エスロブ市での4度目の滞在が始まり、ちょうど一週間が過ぎました。今日は、
日本からの実習生星名麻衣子さんのお誕生日を祝い、
クリスティーナさんとヴァーントさん夫妻がマルメ市の近郊のアルナップという農業大学の学園祭に連れ出してくれました。
5月写真は途中の車の中から撮ったものです。この季節、
南スウェーデンの穀倉地帯スコーネの平原を黄色く染めるもの、それは菜の花です。日本の朧月夜とは一味違う、
スウェーデンの曇り空の下の菜の花畑。そういえば、前に絵葉書で見たことがありました。この菜の花、実は、地球環境によいのです。
ヴァーントさんが言いました「この車のオイルは半分が菜種オイルだよ」「エッ!」と麻衣子さんと私は驚きの声を上げました。
「ガソリンだと1キログラム12クローネ(187円)、菜種オイルだと7クローネ(109円)。安いだけではなく、地球環境にいいのだから、
いうことないね」。
2006年05月22日 06:10 | 投稿者: rumi | コメント (1)
麻衣子さんのお誕生日
5月21日(日曜日)
今日は、エスロブ市での1年間のケアの研修をもうすぐ終える星名麻衣子さんのお誕生日(5月20日)を、
クリスティーナさんとヴァーントさん夫妻がお祝いしてくださいました。クリスティーナさんは海外の研修の責任者でもあります。この1年間、
およそ考えられないくらい丁寧に私たちを公私共にお世話してくださいました。写真は、学生寮の前まで迎えに来てくれて、
お2人が麻衣子さんにプレゼントを渡しているところ。二人でスウェーデンのお誕生日の歌を「ハッピバースディ ツウ ユー♪~」
と歌ってくれました。今日はAlnarp(アールナップ)というマルメの近くにある農業大学の学園祭に連れて行ってくれました。
この日の名物は植木市。広大な大学の敷地で学生たちが植木を販売していました。 近隣から老若男女が買い物にきています。ガーデナーとしてかなりの線をいく、 元SASのパイロットだったヴァーントさんは植木に目がありません。彼は18歳でスウェーデン空軍のジェットパイロットの試験に合格して、 一躍、故郷のスモーランドで有名になった人です。しかし、一時はパイロットを辞めて農業の道を目指したこともあり、 この学校の近くの専門高校で勉強をした筋金入り。
大学ではさまざまな催しが行われていましたが、その一つにロッククライミングならぬ、
ツリークライミングのコンテストが行われていました。いかに早く木に登り、樹木の手当てをするかのコンテスト。
木の下には数人の審査員がチェックリストを持ち真剣な顔をして立っています。するすると上から降りてきたのは若い女性でした。この他、
造園の専門家の樹木ドクターの相談コーナーもあり、そこには木登り用の作業着が飾られていました。
スウェーデンでは造園の仕事には木登りが欠かせないようです。
2006年05月22日 05:53 | 投稿者: rumi | コメント (0)
プロジェクトリーダーのリリアンさん
5月19日(金曜日)
リリアン・グルバーグさんは「The Steps for Skill 」のエスロブ市のプロジェクトリーダーです。訳してスキルアッププロジェクト。エスロブ市の介護者はアンダーナースと呼ばれ、
医療を勉強した介護士。彼女はその介護技術向上のプロジェクトを1人で担当しています。市庁舎にある彼女の部屋でインタビューをしました。
もともと、“子どもの課外活動”の先生を育成する高校の先生。仕事を休職して、このプロジェクトリーダーに抜擢されました。
任期は今年2月から来年1月までの1年間。
高齢者ケアが良くなるカギはスタッフにあると、スウェーデンでは介護力向上のために、 3年間で10億クローネ(約156億円)の予算を組みました。エスロブ市には約4500万円下りました。リリアンさんは、まず、 10人のケア部門の現場マネジャーを通して情報を集め、その結果を分析、4つの取り組みに集約しました。1) 未資格介護者のアンダーナース研修。2)認知症の学習、3)緩和ケアの学習、4)パソコン研修。1)に関しては、 エスロブ市にいる395人の介護者のうち25人が未資格とわかり、 そのうちの定年間近な人を除く20人が20週間の研修を受けることになりました。その先生は、 昨年10月から今年3月末まで千葉県にある舞浜倶楽部という老人ホームで介護指導に当たっていたエスロブ市のベテランの先生、オーサ・ クラボーンさんだそうです。
面白いのは2)~4)の研修。これは他所から先生を呼ぶのではなく、
自治体の中からその道に優れている人を抜擢して勉強の機会を与え、先生に育て上げるという方法です。パリアティブ・ケア(緩和ケア)はエバ・
ミントンさんという看護婦さんが選ばれ、ルンドの大学で勉強を始めました。自前主義です。内部の事情を知らない研修のプロを雇うより、
安くでき、抜擢された人にとってはまたとない動機付けになります。休職中に代理の介護者を雇うなど、
予算のほとんどは20人のアンダーナースの育成に使われるということです。いかに資源を有効に使うか、
これは日本の行政が一番学ぶことではないでしょうか。さわやかな気持ちで市庁舎の外に出ると水仙が咲いていました。
2006年05月22日 04:42 | 投稿者: rumi | コメント (0)
「人間の化学??」 男の料理教室
5月17日(水曜日)
「“Person Chemistry Atmosphere”よ」とシーマさんが訳してくれました。毎週水曜日、
カリダールという高齢者の集会場で開かれる男の料理教室で美味しい食事をおしゃべりをしながらご馳走になっていた時のことです。
人の交わりが作り出す化学。「女性の身体は楽しい井戸端会議でホルモンを分泌する」
という研究がアメリカのマサチューセッツ工科大学から出されたという記事を英会話の授業で読んだことがあります。そこには、
「このホルモンは女性だけのものだが、男性もリタイアした後に楽しい集まりに参加すると長生きをする」とも書いてありました。
おしゃべりは大切。この日のメニューは「鱈のグラタン」と「フルーツスープのデザート。
スティグさんが白ワインを集会場の隣の家から運んでくれました。
先生のアンブリッドさんが窓の外から三色すみれとラベンダーを摘んできて即席の飾りを巻きつけます。
到着早々に締め切りの原稿を書いて睡眠不足の私の身体もリラックス。つい最近まで、
日本の高齢者介護の現場に働く人々が疲弊している姿をたくさん見つめてきたので、思わず、「どうしたらいいの」
「どこから変えていけばいいの」と心の中で叫びました。
2006年05月22日 02:46 | 投稿者: rumi | コメント (0)
5月のエスロブ
5月16日(火曜日)
昨日の夕方、2ヶ月ぶりにエスロブに到着しました。3月16日に発った時には雪が道路に残っていたのですが、今は春の盛り。
学生寮の近所の1940年代に建った家が多い旧住宅街の家々の庭の木々は花の盛り。ここ数日、気温が低く、雨の日が多い異常気象とのこと。
気温は10度ぐらいで少し肌寒いです。今回がたぶん、長期滞在は最後。やり残した取材を済ませ、実際に本を書き始めようと考えています。
たぶん、この町の福祉なら、この町の人々より知っているかもしれない、と思えるようになりました。これまでで4ヶ月の取材がすみました。
2006年05月22日 02:03 | 投稿者: rumi | コメント (1)
ベテラン作業療法士 レイナさん
3月6日(月曜日)
作業療法士のレイナ・ マンソンさんはポリスステーションにあるホームケアチームの部署に自分のオフィスを持っています。彼女に初めて会ったのは去年の10月。 ホーカンソンという唯一の私立の療養型病棟の食堂にいた時です。彼女は定期的にホーカンソンを訪ね、器具のチェックをしていたのです。 彼女が広い食堂に入り、一人、車椅子に座るお年寄りに笑顔で声をかけると、その場の空気が和やかになり、活気づきました。 研修生の女性を一人連れていました。その場で、「次に来た時に会えますか」とインタビューを申し込みました。
彼女は59歳。15歳結婚、子供の手が離れるまで9年間は専業主婦をしていました。 1年間の専門高校での作業療法士としての勉強ののち、今にいたります。彼女はホームケアのチームと一緒に仕事をしています。障害を持っても、 一人で家に暮らせるよう手助けをするのが彼女の仕事。「ひとこと言えば、生活を簡単にして、障害を持ったことをプラスにするのが私の仕事」 と語りました。しかし、すべては障害者本人が決める。高さも長さも器具も、という姿勢を貫いています。
町はずれにある器具センターに立ち寄るレイナさん。ここではすべてが揃います。 スウェーデンでは福祉器具はすべて、障害者研究所の審査を経て夜にでます。値段もここで決められます。 資本主義の不当な競争に巻き込まれないように働く機関があるのです。
最初の訪問は40歳ぐらいの若い人。 怪我で腰を痛めて働けなくなったために療養中に家で過ごしやすいようにいろいろなアイデアを持ち込んで、相談しているところ。 写真は腰を曲げなくても靴下が履ける器具。歩きやすい杖を持参。トイレ、お風呂、 椅子のクッションなどに少しの器具を加えることで暮らしやすくなりそうです。
次はスコンスカという新聞社のマネジャーをしていたという男性のお宅。一人暮らしですが、
掃除も行き届き、さまざまな工夫をしながら、家に一人で暮らすことを維持しています。この訪問は精神的な訪問。つまり、
特に用事はないけれど、様子を見に来て話をするだけ。この男性は実にきちんと暮らしていました。「彼はアクティブマン、
自分で考えて工夫をしているの」とレイナさん。
彼女の心情は「正直であること。フレキシビリティを失わないこと」だそうです。
2006年03月15日 17:10 | 投稿者: rumi | コメント (0)
雪の中を1時間のウォーキング
3月5日(日曜日)
久しぶりにクリスチーナウォーミングさんの家に麻衣子さんと遊びにいきました。 お昼を食べる前に一時間の散歩をしようということになり、ご主人のヴァントさん、クリスチーナさん、麻衣子さんと4人で歩き始めました。 寒そうにみえるけれど、案外寒くないのです。面白いのは歩きながらよく見ると、雪の原にいろいろな足跡があることです。たぶん、 野うさぎのものでしょう。雪の足跡遊びをしながら、歩きました。ヴァントさんもクリスチーナさんもスモーランドの出身。 雪の遊びはよく知っています。実は南のスコーネには普段はあまり雪が降らないのです。今年は25年ぶりの雪が多い年だそうです。 雪がない普通の年は風が強くて嫌になるぐらいだから、雪の方がいい、と誰もがいいます。
ヴァントさんが寝転がっているのは、こうして、手を上下に動かすと「天使」 が雪にかけるんだと教えてくれました。腕を動かした後が羽になるのです。4人で子供に帰った気持ちで雪の中を歩きました。 ジムでエクササイズを健康的なウォーキングです。クリスティナさんとヴァントさんが、麻衣子さんと私の先を歩いていた時に、 2人が仲良く手をつないだので、すかさず、写真を撮ると、2人はおどけてこんなボーズをしてくれました。
家に帰り、ホットチョコレートをご馳走になりました。
2006年03月15日 08:11 | 投稿者: rumi | コメント (0)
99歳と84歳のご夫婦が築いた生活
3月4日(土曜日)
1907年生まれで、かくしゃくとして元気なラルス・スペルソンさんは99歳。奥さんのヴィオラ・ スペルソンさんは84歳。お2人の結婚生活は64年間にわたります。お宅に訪問したのは今日で2度目。 お2人には明治時代の気骨のある日本人を感じます。農家の10人兄弟、 9女1男のひとりだけの男の子だったラルスさんは父親の後を継ぎました。ヴィオラさんとの結婚は35歳の時。 農家の青年組織のダンスパーティで知り合いました。
ラルスさんは、かつて100匹の豚、乳牛、鶏を飼い、肉やミルク、チーズに卵を生産していました。 1年365日、朝、5時30分に起き、乳搾りをしてから、7:00に朝食、 2人の女の子を学校に送り出す日常を送ってきました。この他、砂糖のビート、自家用のジャガイモ、にんじん、豆なども作っていたそうです。 1950年代にトラクターが入るまでは、馬を使い畑を耕していました。
専業農家で忙しく働いていたヴィオラさんが洋裁を習ったのは65歳の時、 洋裁の学習コースで学びました。彼女の手仕事は職人のようです。スーツの襟、柄合わせが確か。今、 着ている襟の部分がニットで身ごろが布のツ-ピースも素人の手仕事とは思えません。右に写るランプシェードもヴィオラさんが作りました。 洋服ダンスにたくさん下がっている洋服はすべて自分で作ったもの。
ラルスさんも椅子を作りました。背もたれの刺繍はヴィオラさん。また、2人は別々のブックサークル (読書会)での活動を続けています。本はABFという市民の文化活動の集会場に行けば借りられます。 二人ともこの活動は1985年から続けています。ラルスさんは水曜日のグループ。5週間で一冊の本を読み終えます。 ヴィオラさんは金曜日のチームで10週間で一冊。また、毎週火曜日にはカリダールで行われる年金者組合の音楽の会にはかかさず出席します。 また、毎月、Forsamlingshemというスープの日には39クローネを払いスープを皆さんと頂きます。 30人ぐらいが集まるそうです。夫婦喧嘩はなさいますか、 という私の質問に2人は顔を見合わせて、「ナイ、ナイ(いえいえ) 」 と答えました。
2006年03月15日 07:41 | 投稿者: rumi | コメント (0)
スカンジナビアンモダン
3月3日(金曜日)
日本では雛祭りのこの日の午後、スティグのインタビューを終えたシーマと私は、 カリダールで働くアンブリッドさんの家にお呼ばれしました。彼女はエスロブ市の北東にあるホウルビイという町に住んでいます。 カリダールで待ち合わせて、車で40分も走ったでしょうか。綺麗な町が現れましたが、さらに、走ると田園地帯に出て、 その先に彼女の家がありました。1898年に建てられたスコーネの長屋といわれる古い農家を改装して住んでいます。
彼女の生活はまさにスカンジナビアンモダン。 写真を撮るのを遠慮したのであまりいい写真がありませんが、実に素敵な暮らしぶりでした。 白いクラシックなバスタブに紺のタオルなどのテキスタイルで演出した浴室が抜群。 それに料理の本がディスプレイされているこの台所もなかなかのもの。清潔感、シンプルモダンに鄙びた田舎家のニュアンスが加わり、 実に居心地がいい家でした。アンブリットさんのセンスの良さはなかなか。それに料理の味がいい。 プロが作った市内のレストランの料理よりずっと美味しいと思いました。
昨日から作り、一晩寝かせたというケーキのようなパンのサンドイッチにサラダが今日のメニュー。 これもほんとうにおいしかった。食事はご主人の手作りというサンルームで。大きさを決めて注文すると、 カットされた建材一式が送られてくるそうです。3方に開いたガラス戸の外は一面の雪野原。隣の家までの距離はかなりあります。 ご主人に言わせると、自分たちの手作りだから、安くできたのだそうです。実に贅沢な生活だと感心しました。 ちなみにいつもお洒落な彼女の洋服は手作り。
この夜は雪が積もりそうなので、少し早めに、家を出ました。 ホールビイの駅まで15分ぐらい車で送ってくれ、その後はホラーという駅までバス。その後は、汽車でエスロブに帰りました。 バスが駅に止まり、プラットホームに出たら、汽車が出発。乗り遅れたとヒヤリとしたら、雪で一台遅れているとのこと。 一人では到底帰れない道をシーマさんが一緒なので帰ることができました。
2006年03月14日 10:01 | 投稿者: rumi | コメント (0)
カリダールに住むスティグさん
3月3日(金曜日)
今日はカリダールという高齢者の集会所がある建物に併設された高齢者アパートに住むスティグさんを通訳のシーマさんと訪ねました。 スティグさんは、カリダールの集会所に行くといつでも会えます。集会所が彼の居間のような存在。朝も新聞を自宅から持ってきて、 集会所のロビーで広げて読んでいます。読んでいるうちに、ここで働くアンダーナスが来て、隣に座り、ちょっとした会話が始まります。 昼も男友達と一緒にカリダールの食堂で食べます。普通は59クローネ(850円)だけれど、年金生活者は39クローネ(560円) で食べられます。いい食事が一日一回、食事を作るのが面倒な男性も格安で食べることができるのです。 彼はここでビリヤードもよく楽しんでいます。
そのスティグさんの自宅でインタビューとなった時、彼は「朝食を一緒に食べない」 と通訳のシーマさんと私を誘ってくれました。僕は日本の男性と同じ、と自称するくらい家事は苦手という彼が豪華な朝食を用意してくれました。
スティグさんは2000年に奥さまが亡くなられてから、 カリダールの高齢者アパートで一人暮らしを続けています。彼に簡単なライフヒストリーを聞かせてくださいと頼むと、ちょっと、 悲しい生い立ちを伺いました。彼は1922年生まれの84歳。生まれは、スコーネでも海よりのランドスクローナ。 5男1女の6人姉弟の末っ子。彼が2歳の時にお父さんが、6歳の時にお母さんが亡くなりました。幼い彼だけはおばさんの所に引き取られます。 エスロブ市の人々の朝食はオートミールが多いけれど、海の近くで育った彼は朝から鰊を食べていたと聞きました。
幾つからかはわからないけれど、大きくなった彼はエスロブ市の屠殺場(肉をカットする会社) で22年間働きます。結婚は24歳の時、1男1女に恵まれます。そして、通信教育で計理士の資格を取り、 1960年には自分の会社を持ちました。かなりよく働いた彼は、奥さんには家にいて欲しかったので、 彼の奥さんは下の子を産んでからは専業主婦だったそうです。楽しかったのは、当時、 エスロブにできたホテルに奥さんとダンスをしに行ったこと。1950年代のことです。
スティグさんの話を聞いていると、スウェーデンの経済が成長している時代が髣髴と浮かんできます。 カリダールの高齢者アパートはさまざまな人生を過ごしてきた人々の終の棲家。でも、安心して住める住宅だと思います。 スウェーデンでは昔このようにしてコーヒーを飲んだのだと教えてくれました。
2006年03月14日 09:25 | 投稿者: rumi | コメント (0)
SFIのエバ先生
3月2日(木)
SFIは、18歳以上の移民の方が通うエスロブ市が経営する語学学校です。場合により、 16歳からのケースもあります。星名麻衣子さんはこの学校でスウェーデン語を学んでいます。今日は2度目の取材です。 スウェーデンで仕事に就くにはスウェーデン語が話せないと通用しません。教室の一番後ろに座り授業風景をみました。今日は13名が出席。 3人が休みだそうです。エバ先生ががゆっくりと学生にわかりやすいように話をしています。日本からお客様が見えていますよ」 と私を紹介してくださいました。今日はSKRIVA(履歴書)の書き方を勉強しました。とても、自由な雰囲気の授業。 エバ先生は生徒の信頼がとても厚いそうです。
この日は簡単な書き取りのテストもありました。Sang(歌) という言葉から始まりました。隣の麻衣子さんはすらすら書いています。さすが!ちなみに、麻衣子さんはこの後、 一週間後にAから始まる4段階のクラスのCに合格して、Dに進級となりました。この学校には141人が学んでいて、そのうち、 20人が他のコミニュンから学習に来ている生徒。女性が92名、男性は49名、なにぶん、女性がどこでも積極的。国はコソボから21名、 ポーランドから17名。イラクから14名、タイからは12名といった具合です。31の国からの学生が学び、 その言語は24種類の違う言葉だそうです。
エバ先生は2人目の子供ができた30歳の時に、それまで、 料理を学校で教えていた自分の人生を変えようと思い立ちました。Komvuxという20歳以上の人が学びなおす学校で、 もう一度終了していない科目を2年半かけて学びなおし、その後、マルモの大学に入学しました。大学で3年半学んだのち、 マルモ市で外国人の為の語学学校の先生になります。2年間をその学校で過ごしたのち、エスロブのSFIで先生を募集していたので、 応募して今にいたります。
エバ先生は「先生の仕事というのはとてもヘルプフル」と言いました。「勉強を教えるだけでなく、 人間を理解するのが私の仕事だと思うの」というエヴァさんの言葉に、先生の仕事とは・・、とあらためて考えました。エバ先生は抜群の人気。 去年のクラス替えの時に、先生のクラスで勉強できなくなったクラスの全員が、学校に「自分たちはエバ先生に学びたい」 という嘆願書を出したぐらいです。先生のお誕生日のお祝いもクラス中が集まり、教室でパーティをしたそうです。
2006年03月14日 08:27 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ホームケアサウス
3月2日(木曜日)続き
Hemvardとはホームケアのこと。 写真は市内のホームケアの4つのパートを取り仕切るユニットマネジャーのカメラ・プレソンさんです。 カタリーナさんとホームケアのオフィスに一時休憩に帰り、お礼をいいに行こうと部屋に行ったら、この写真。 ドアーの外で出会いました。 私が読売新聞の「天窓」に書いた文章を英訳したものをカタリーナさんが見せておいてくれたので、 「読んだわよ、あなたのこと」 ととても気さくに歓迎をされました。今回は時間がないので、 5月から6月にかけて滞在する次回にインタビューすることになりました。元気な40代の女性。ちなみに、 高齢者ケアの部署の10人のユニット・マネージジャーは、スタファンさんをのぞいて全員女性。女性のパワーを感じます。
休憩が終わると、また、出動です。 カタリーナさんが手にしているのはDOMOSというスーパーの袋。たぶん、去年の秋、
訪問した時にはなかった買い物サービスを始めたようです。お年寄りの家で買い物の注文を聞き、買い物表に書き取ります。
それをインターネットでDOMOSに注文。 事務所に配達されたものを持参します。ニーズの掘り起こしで独自に編み出したサービスでしょう。
簡単に買い物にこれないお年寄りには便利なサービスです。ディナー(一番豪華な食事)
である昼食は一週間分の調理された冷凍パックがランドスコーネという町から届きます。
食事のデリバリーサービスがいまいち把握できませんので、これも次回の宿題。下の写真の左手が調理食をとろけるパックですが、
たぶんに臨機応変な対応をしているので、全体がつかめません。
朝、一番で訪問したカリンさんの家に再度訪問しました。カリンさんはとっくに着替えをすませ、もちろん、 部屋は綺麗に片付いて食事も済ませています。最初は重症に見えたけれど、料理も作るし、パンも自分で焼くのよ、 とカタリーナさんが教えてくれました。トイレの介助の訪問なので、同性ということで、「どうぞ」と言われ、 立ち上がる場面だけ見せていただけました。不自由ながら、自分で尿とりパットも当てています。車椅子にも自分で乗れます。
古いエスロブの風景画がかかっていました。「カタリーナさんが質問してあげて」というので、 柄のことを聞くと、「エスロブには古い風車があったのよ」と昔のことを話してくれました。カタリーナさんが「これを見て」 とお孫さんから送られてきた写真を見せてくれました。それは、この家によく訪ねてくるお孫さんが初めて出産した時の写真。 そこにはこんな言葉がありました。
すべてをポジティブに生きるのはアート
2006年03月13日 03:59 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ホームケア・サウス 市内のホームケア
3月2日(木曜日)
ホームケアは大きく分けて2つに分かれています。市内と郊外の田園地帯。 今日は市内のホームケアの取材です。これも4つのグループに分かれ、南東、南西、北東、北西の4つ。私はこの日、写真の南(SYD)西 (OST)、南西のチームのチームリーダーのカタリーナさんに付いて回りました。 カタリーナさんは南東と南西の2つのチームを自分も現場で働きながらリーダーとして働いています。南西のチームには42名の利用者(高齢者) がいます。今日、出勤のアンダーナースは6人。朝7時から打ち合わせが始まります。
働いているメンバーの年齢はさまざま。カタリーナさんはたぶん私と同じ50代後半。40代、30代、 20代の後半、前半といろいろな経験のレベルの人々が混ざって働いています。下は市内のホームケアサービスのオフィスの玄関。 自転車が並んでいます。このオフィスがあるのが、警察のあるビル。去年このビルを訪ねた時のことでした。 クリスティーナさんが渡してくれたレジュメに「at ploice office」と書いてあり、ホームケアを訪ねるのに、 なぜ警察を訪ねるのかが、どうしても理解できませんでした。まさに言葉、習慣の違う私がこの町を理解しようとするのはゲームのような、 謎解きのような小さな困難がたくさんあったことは確かです。
この日もお天気は逆戻り。朝一番の仕事は車の雪払いから始まりました。7:30出発。 カタリーナさんはベテラン。仕事を見ているとプロ中だと思いました。去年も、 ご主人の仕事の関係でアメリカに長く英語が堪能なカタリーナさんに付いて取材をしています。10キロほど車を走らせている途中で、 私の耳に残った言葉があります。「例えば病院から退院した後、在宅を選択した方がサービスハウスを選択した人より長生きをするの、 なぜかわからないけれどね」という言葉です。家を変えるのは認知症にはよくないのよね。去年は自宅で淋しそうに見えた高齢者が、 この冬には違って見えました。懸命に、自分の家に固執して生きているという印象なのです。
最初に伺った家は下のような集合住宅。ポストから新聞を取り出すのも、重要なサービスです。
利用者は81歳のカーリンさん。一人暮らしです。30年間、学校で給食を作る仕事に携わってきた方です。
「25年芽には金時計をもらったのよ」としぅかりした声で答えてくださいました。それに「ああ、あなたにはカリダールで会っているわね」
と言もわれました。たぶん、カリダールという高齢者の集会場の火曜日の音楽会の日に会ったのでしょう。
カタリーナさんはまず窓のブラインドを開けます。部屋に明るい光が差し込んで、これも、生活のクオリティを高める重要な仕事。
次にカタリーナさんがしたのは、靴下を履かせる仕事。これは脹れた足の血の循環をよくする靴下。カーリンさんの問題は膝、
手術がうまくいかなかったので、膝が曲がらないのです。
この靴下は長さもサイズも数種類あり、カーリンさんの場合は膝下の長さでした。 脹れた足にタイトに履くのは難しそう。靴下が履けるとスカートを足から入れ、 カタリーナさんが右手を引いただけでカーリンさんは自分の力で起き上がります。そして、自分で歩行器を使い立ち上がり、車椅子に移動します。 ベッドから車椅子までの3メートルは車椅子で一人で移動。トイレのドアーの所で、また、歩行器を使い自分で立ち上がり、 歩行器を回転させて立位置を変え、歩いてトイレの便器に移動。足はかなり悪そうで、いざるような歩き方です。座る前に、 カタリーナさんがパンティーを下ろすのだけを手伝います。
私が感心して見ていると、カタリーナさんは「We see what they need for help」と答えました。決して安易な手出しはしないのです。カーリンさんが便器に座ったのを見極めると、すかさず、 カタリーナさんはベッドメイキング。手際がすごくよい。この後はカーリンさんはすべて自分でできる。洋服を着るのも、朝食を作るのも。 それでも、ホームヘルプサービスyは朝、昼、晩の3回利用。カタリーナに言わせると、滞在時間は15分から30分がほとんど。つまり、 ホームヘルプサービスは、利用者と介護者の共同作業のようなもの。一方的に受けるのではない。 利用者が自立していることが最高の人間的な尊重になるのです。7時35分に事務所を出発して、カーリンさんの家を出たのが8時5分。 ここまでの車の移動時間を入れると、20分ぐらいの滞在時間。
この後は、隣の家に立ちよる。すでに着替えて台所のテーブルに座っている女性に薬を上げるだけ。 5分ぐらいの滞在、これでも、毎日、同じ時間に信頼している介護者が来るだけで生活にリズムができる。カタリーナさんは、 この訪問は心の問題だと言った。短い時間だが、実によく話す。次に寄った家では少しゆっくり。本人が吸引をしている間に、 朝食の支度を始めた。サンドイッチとコーヒー。ドリップ式のコーヒーが落ちていく音といい匂いが立ち込める。次も時間をかけて、 カップルの家に向かう。このカップルは2人とも介護が必要だが、自宅に住んでいる。この家でも時間がかかる、 最後に家を出る時にごみだしをするのも、重要な支援。雪の屋外に簡単には出られないし、ゴミが部屋にあると異臭の原因にもなる。 ここまでで10:45。この後、車を走らせて事務所に戻り、30分の休憩。早めの昼食を済ませる。
2006年03月12日 04:00 | 投稿者: rumi | コメント (0)
Ingla インゲラ40歳のお誕生日
3月1日(水曜日)夜
インゲラはバリア・ゴーデンというサービスハウスで働くアンダーナース(准看護師)。 花の独身で素敵なアパートを買い、一人暮らしを楽しんでいます。そのインゲラが40歳のお誕生日を迎えました。 お誕生日で印象的だったことが3つあります。一つは、かなり、人が集まるのかと思ったら、家族だけの、オープンサンドイッチパーティ。でも、 ハムやチーズはDOMOSで働くお母さんがいるから美味しそう。台所のテーブルに、タッパウエアに入れてあるハム、瓶ごとのピックルス。 それにパン。勝手に自分でオープンサンドにして、居間のテーブルに持ってくるという具合。 今日も勤務があった彼女の方に力が入らないもてなし。
友達からは花やプレゼントがいっぱい。手前の大きなろうそくたてから、 小さなアクセサリーまでディスプレーがしてありました。居間のテーブルにはワインのデキャンタに冷やした白ワインが注がれていました。 2つ目に印象に残ったのは食器。ロイヤルコペンハーゲンのブロウ・ブルマのケーキ皿とティーカップです。 デンマーク王室御用達のロイヤルコペンは、昔、デンマーク領であったスコーネの人々にとっては憧れの食器なのでしょう。 高いのそろえているなと思ったら、父方のおばあちゃんがティーカップを、 母方のおばあちゃんがプレートをお誕生日とクリスマスごとに一つずつ揃えてくれたものだそうです。20セットあるとのこと。
3つ目に印象的だったのは父方のまた従姉妹がアメリカにいること。インゲラに会うと、「私、
こんどアメリカのまた従姉妹の結婚式に行くの」という言葉を何度か聞いたのですが、去年と今年に一回ずつ従姉妹の結婚式があるのです。
アメリカに行くのは、彼女たちにとって格別の意味があるようです。1925年に父方の従兄弟が17歳で単身移民したそうです。
ミネソタ州にスウェーデン系の移民が多いということもわかりました。
スウェーデンの、例えば、スーパーの商品にアメリカ的な消費文化の匂いを感じます。
フランスやイタリアの濃くを感じるシックな食料品店の風情とは違う、物流文化のたまものの感じ。前にも書きましたが、
600万人しか人口がいなかった20世紀の前後に人口の4分の1弱に当たる人々がアメリカに移民しているのです。スコーネからは少なく、
土地のやせたスコーネの北のスモーランドから一番たくさん移民したそうです。
ついでに、4つ目。
インゲラのお父さんはこの間エジクレボーンさんが話して下さったエスロブの大手食品会社のFILEXのジャガイモの生産部門で働いていたそうです。
これはマッシュポテトにするジャガイモです。お父さんが「工場労働者は60歳で早期退職するのです」と語りました。ペンショナー
(年金生活者)までの5年間は会社が年金を支払ってくれるそうです。お父さんはLPレコードのコレクションが趣味で、
それをDVDにコピーする作業を続けているそうです。コレクションが13000枚もあるそうです。
この日の帰り、私を学生寮まで送ってくれたお母さんが、エスロブのFILEX社のある線路の反対側(バリア地区)を車で案内してくれました。
広大な工場群です。人々の暮らしから目隠しをされたようなエスロブ経済を支える工場群に度肝を抜きました。
私のもって行った手ぬぐいを頭に被ったお母さんのインゲルさん。
2006年03月11日 08:50 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ホームケア・アラームチームの出動
3月1日(水曜日)続き
740人のカギの管理も大変なことの一つですが、すべて、番号管理になっていて、 パソコンの名簿にナンバーが書かれています。利用はすべて電話からパソコンに通じてデーター分析がされ、 その結果が在宅ケアのサービスに生かされています。この日は電話のならない日で、昨日はすごい件数が鳴ったそうです。この日、 私が付いていったほう一つのケースは重度のリュウマチの奥さまの在宅ケアをご主人がしているケース。アラーム要請はトイレ介助でした。 奥さまが車椅子からトイレの便器に移動する時に、ご主人はそばにいるだけ。奥様は危ないながらも自分で立てます。 アラームチームがいるだけで、安心があります。手伝わなくても、要請があれば出動。
この時、玄関のチャイムがなり、お客様がありました。 Arbets Platsombuo というリュウマチを患う人々の組合の人がコーヒーを飲みに見えたのです。もちろん、 友達としての訪問です。この間、ご主人はベットメイキングをしていました。シイブさんが「奥様は自宅が好きで、自宅に住みたいから、 努力しているの」と教えてくれました。いちばん大変なのはハンディを持った方なのです。
2006年03月11日 07:34 | 投稿者: rumi | コメント (0)
抜群のチームワーク ホームケア・アラームチーム
3月1日(水曜日)
一歩部屋に入っただけで、私はホームケア・
アラームチームの抜群のチームワークを感じ取ることができました。ここに研修に来た星名麻衣子さんも同じ感想を持っていました。
エスロブ市の職員の人間関係は概してとてもよいといえると思います。これも麻衣子さんの言葉ですが、
サービスハウスに働くアンダーナースの間に派閥がないというのです。これは学校で教える大切なカリキュラムでもあります。
「職場の人間関係がよくなくして、いいサービスなんて提供できない」というのが、サービス業で33年間働いてきた私の持論でもありました。
人間関係に悩んで職員が辞めていく職場は、サービスを提供する職場としては不適格だと思います。
私が注目したのが上の写真。8人のメンバーの名前、カットした写真や言葉が張ったある休憩室のボードです。休日にメンバーでスパに行ったり、
フットボール・ゴルフ(スウェーデンで流行っている)をしているユーモアたっぷりの写真です。
上司であるユニットマネージャーのスタファンさんの顔も見えます。思えば、私の職場でも、昔はみんなで休日に遊びにいったものです。
私が到着すると、休憩室に、昼食が終わったばかりの5人のメンバーがいました。 「写真を撮ってもいいですか」と聞くと、すぐに全員が集合してボーズをとってくれました。真ん中の女性が帰り(ごめんなさい。 お名前を聞き忘れました)。午後のシフトの4人が残りました。左からシイブさん、スザンナさん、アンナさん、ヘレンさん。これまで、 4ヶ月間、取材を続けながら、人見知りをしない私がなんとなくスタッフに溶け込めないと感じる職場も無くはなかったのですが、 ここの皆さんにはホスピタリティを感じました。皆さんが素晴らしさとともに、上司のスタファンさんの人柄のなせる業だなと思いました。 写真はちょっとおどけて部屋に入ってくるスタファンさん。
装置は自宅の電話にシステムをインストールするだけ。
腕時計式かペンダント式のボタンを常時身に着けます。この日、アラームボタンが見当たらないという電話がかかってきて、出動についていくと、
棚にペンダント式のボタンが置いてありました。そんな時も笑顔で応対します。「たったこれしきのことでベルを鳴らさないで」
という応対がないから、皆さん、実に気軽にベルをならします。
ある利用者は2005年度には1600回のコールをしています。
「いちばん大変な時はどんな時ですか」と聞くと、人工呼吸をする時という答えが返ってきました。 私も日本でヘルパー研修の時、人工呼吸について習いましたが、口を当てて息を相手に吹き込むのです。もちろん、 専門のマウスピースがありますが・・。また、訪問した先の方の死に出会うこともあります。そこで、 ホームケアアラームのチームは必ず2人がチームとなり出動します。現在、740人の利用者がいます。 65歳以上になると誰でも電話一本で加入できます。
2006年03月11日 06:01 | 投稿者: rumi | コメント (0)
冬に逆戻り ホームケアリハビリの取材
3月1日(水曜日)
昨日のビリンゲからの帰り道、かなり冷え込んでいるなと思ったら、翌朝は雪。すでに、 たくさんの渡り鳥がエスロブに帰ってきて鳴き始めていますが、彼らも早く帰りすぎたと反省しているのでは。 こんなに雪の多い冬は南のスコーネでは25年ぶりだそうです。それでも、 足が不自由になった高齢者の方が歩行器を使い外出している元気な姿に出会いました。
今日の午前中はKARRAKRA(シャラオカ)という複合施設にホームケア・リハビリの取材です。 ホームケア・リハビリチームは昨年11月にスタートしたばかり。リハビリは脳溢血や転倒して骨折した後、退院した後に行うケースが大方です。 エスロブには、病院から帰った後にほぼ3つのケースがあります。自宅に住んでリハビリセンターに通う形式。 自宅に帰らずにショートステイをしながらリハビリをする形式。自宅でリハビリを行う形式の3つがあります。 ホームケアリハビリは昨年11月に発足しました。昨年、 私がエスロブを離れたのが10月23日。たった3ヶ月離れていただけなのに、エスロブのケアはイノベーションしていました。 昨年10月とはもう環境が変わっているのです。シャラオカも内装が綺麗になっていて、 ホームケアリハビリチームやホームケアアラームチーム専用のオフィスが作られていました。 エスロブのケアは呼吸をしながら日々生きていると実感しました。
写真はイングリッドさん、1986年からアンダーナースとして働いています。 ホームケアリハビリのチームは4人のスタッフ。そのうちの一人がベテランのオキュペーショネルセラピスト(OP・作業療法士) のビルギッタさん。アンダーナースのイングリッドさんはOPのビルギッタさんとの連携でホームケアリハビリを行っています。 オフィスにかかっているホワイトボードにはがかかっていて、利用者の名前がイニシャルで、ETさんとか、VAさんとか書かれていました。 ホームケアの場合はプライバシーの保護も重要な仕事になります。インシュリンが必要とか、 病院から何日に帰ってくるなど一週間のメモが書かれています。
ビルギッタさんは1980年からこの仕事を始めたベテラン。胸に名前を書いた名札をつけて出勤です。 車の雪払いから一日が始まります。今日はビルギッタさんとイングリッドさんの2人が利用者の元に出向きます。市内を出てすぐ、車窓の外に、 林やBosarpの教会が点在するスコーネの白化粧した平原が広がります。30分あまりでステハグに到着。利用者の女性はストローク (脳溢血)に会い、 先週、ルンドの病院から戻ってき たばかりです。 今日はリハビリ計画を本人と一緒にたてる訪問の目的です。
利用者の女性と2人はテープルに腰かけ、「あー、そうかそうか」とか「うんうん」「そうね」など、 スウェーデン語の話せない私でも、聞き上手に話しながら、案外、しっかりしている高齢者の方の話を聞きます。途中、電話がかかりました。 エスロブのケアについて本を書きたいという日本人が同行する許可を得た息子さんがお母さんに大丈夫かと聞くためにかけた電話です。 リハビリは退院した一週間前から始めています。ビルギッタさんは彼女は前に戻れるのに、 もう何にもできなくなったと気が弱くなっているだけと診断しています。目標は「買い物に行くこと」と具体的に決まりました。
OPが行うホームケアリハビリは、失われた日常生活動作を取り戻すためのリハビリです。 この日は肉団子を袋に小分けして入れる作業を、不自由な右手をカバーしながら練習しました。それが終わると、本人に確認して、散歩です。 雪の中を少し歩きました。彼女には何ができるのかの発見の仕事でもあります。この日、私が気づいたことがあります。 リハビリの仕事はあわただしい中で行うのではなく、じっくり腰をすえて行うものだということです。「すべて彼女のやり方でやの」 「忙しいとよくないのよ」とビルギッタさん。住み慣れた自宅に住むことをサポートするにはたくさんの援助があるのだとわかりました。
2006年03月11日 04:56 | 投稿者: rumi | コメント (0)
80歳のボランティア
2月28日(火曜日)
ブリッタ・スベンソンさんが来週の火曜日に81歳になると聞いたのは、 セカンドハンドショップでのこと。セカンドハンドショップとは、スウェーデンに41の店舗を持つNOPならびにNGOの全国組織です。 正式には「ERIKSHJALPEN」、つまり「エリックは助けています」という名前を持つ店です。衣類から家具、食器、 靴や書籍にいたるまで市民の不要になったものをただで譲り受けます。それを安い値段で販売して、その収益を本部に集め、 世界の貧困に悩む国の子供を救い続けています。エスロブのこの店は、 私がエスロブ市でお世話になっているクリスティーナさんが10年前にはじめました。 本部はクリスティーナさんの故郷のスモーランドにあります。
1925年生まれのブリッタさんは、5歳年上のご主人が21年前に亡くなってからは一人暮らし。 一男一女、そして、6人のお孫さんがいます。ご主人は汽車の運転手でした。 上の男の子が小学校に行く頃からお店でパートタイムとして5年間働いた後、ルンドの子供病院で准看護師として働きます。結局、 65歳で年金生活をするまで働きました。ブリッタさんの話を聞いていると、1950年代のスウェーデンの、 普通の女性が仕事を得て社会に出て行く姿が浮かびます。第2次世界大戦の後、参戦しなかったスウェーデンは、 荒廃したドイツをはじめとする欧州各国の特需で経済が大きく発展していったからです。 「夫もジャガイモの皮むきぐらいは家事を手伝ってくれたわ」と語る姿に当時の人々の勢いのいい生活が伺えます。
セカンドハンドショップがオープンするのは、毎週水曜日と土曜日。 火曜日は持ち込まれた商品にアイロンをかけたり、値札をつけて陳列する仕事にボランティアが集まります。この日、 セカンドハンドショップでは商品知識の勉強会が行われました。スコーネの北にある、スモーランドのガラスを中心に行われました。 コスタボダという言葉が聞き取れました。私が昔、銀座和光で販売していた商品です。勉強会が始まる前のお茶の時間にセーラムが出ました。 日曜日にクリスティーナさんのお宅で彼女と麻衣子さんが作ったスウェーデンのこの季節のお菓子です。キリスト教の復活祭の前の断食(四旬節) が始まる前に食べるお菓子です。
2006年03月10日 06:14 | 投稿者: rumi | コメント (1)
B&B 続き
宿泊所の部分はかなり古い農家の後です。 1階は一部が古本屋になっています。1階にダブルベットとエクストラベットの部屋が1つ。それにキッチンとシャワー室。 2階にリビングルームとベットが3つの部屋が一つあります。この日は私だけだったので、ゆったりと2階の部屋を使いました。 1泊350クローネ(5000円)。到着したばかりの私を、奥さんが教会でコンサートに誘ってくれました。そしたら、ウェルナー・ グラッツ先生にお会いしました。
この写真が私が泊まった部屋です。朝食を奥さん が6時半に用意してくれました。しかし、20分ぐらいしか時間がなく、 そそくさと済ませて、すぐ近所にある在宅ケアのオフィスに向かいました。ここではアイスランドから来たポニーを2頭飼っていて、 夏には馬車に乗せて、近隣を散歩してくれるそうです。
2006年03月10日 06:07 | 投稿者: rumi | コメント (0)
B&B ブレッド&ブレックファースト
2月26日(日曜日)~28日(火曜日)
Billinge(ビリンゲ)の取材で私が2泊したのは、古い農家に手を入れた朝食付きの民宿。経営者はグルドラン&グンナル・
ヒルティンーカバリュスさんというジャーナリスト(奥さん)と牧師(ご主人)の夫妻です(いちばん下の写真)。
昨年にオープンしたばかりです。去年は、
田園地帯の在宅介護の日帰り取材にはクリスティーナさんが朝の5時半に学生寮に迎えに来てくれたのですが、
申し訳ないので宿泊できるところを探しました。アンダーナースの専門高校の先生がここを紹介してくださいました。
26日にはクリスティーナさんが車で送ってくれました。
2006年03月10日 05:25 | 投稿者: rumi | コメント (0)
在宅サービス手際のよさ
2月28日(火曜日)
今日もビリンゲにあるエスロブ市の田園地帯の在宅ケアサービスを取材しています。昨日同様、
朝5時半に起床して7時からの出動。今日はチームリーダーのイングリッドさんのケアに付き添いました。1949年生まれの彼女は私と同世代。
身体が自然にきびきび動き、手際がいい。無駄がなく、気ぜわしくない。昨日の皆さんもそうでしたが、ケアの仕事は、
よい経験を重ねることが大切だとわかりました。
25分ほど車を走らせ、最初に行ったのはストッカマランという村。彼女の義理のお母さんの家です。
92歳になるオリガさんは1949年から写真の家に住んでいます。玄関のドアーの鍵を開け、元気に「グモロン」
とオリガさんが寝ている寝室に入ります。。「今日は日本人が一緒だけどいい」と了解を得ます。ポータブルトイレの中をトイレに流し、
ベッドに寝ているオリガさんの血行が悪くて膨れた足に、循環をよくするストッキングをはかせるのが最初の仕事です。
おしゃべりをしながら10分で済ませると、窓のブラインドだけ開けて、後はお母さん自身に任せて、
今度は隣の同じような建物に住む91歳のイルマさんの家に向かいます。
イルマさんは着替えを済ませ、イングリッドさんを心待ちにしていたようです。キッチンのテーブルに座ったイルマさんとお喋りをしながら、
イングリッドさんはサンドイッチを用意、コーヒーを入れます。朝ごはんは何がいいか、常にイルマさんの好みの確認を怠りません。
イルマさんもはっきりと答えています。お喋りを続けながら、隣の寝室のベッドメイキングをします。終わるとすぐに台所に戻り、
いくつかの食器を洗います。何度も丁寧に拭くので流しのステンレスはピカピカです。
2番目も短い滞在。車を走らせ3番目に向かったのはご夫婦の家です。ここでは、 脳溢血で言語障害が残った奥さまの入浴介助。すでに赤い大きなタオルで身体を包んで、キッチンのテーブルに座って待っていました。 入浴の作業の正確さ、洗い方の丁寧さ、声かけのやさしさに感心しました。手早いのにあわただしくない。それ以上に参考になったのは、 自分でできることは、できるだけ本人にやってもらう姿勢です。立ち上がったり、座ったりするのも、 杖や手すりを使い本人の残っている能力を活用しています。お湯の温度も本人の手に当てて、これでいいかと聞いていました。
写真は足の甲が伸びないようにする器具です。素敵なセーターに着替えて、キッチンに向かいます。
キッチンではご主人が朝食のオートメールを温めていました。作業療法士の方が週一回来て
奥さまと一緒にお料理を作るそうです。その時に座るのがこの椅子。高さの調整ができます。一緒に料理を作り、
記憶を残しておくというリハビリテーションがプロフェッショナルの手でなされます。
居間にはたくさんの写真がかか っていて、ご主人は軍人さんであったことがわかりました。
射撃で賞を取った賞状をご主人が説明してくれました。介護における家族の役割をかいま見た気がしました。
再び、車を走らせ、お姑さんのオリガさんの家に着いたのが8;45.オリガさんは着替えを済ませ、 キッチンのテーブルに腰掛けていました。部屋のブラインドも自分で開け、明るい光が差し込むなか、音楽がかかっています。 オリガさんの補聴器をかけ、朝食を用意、冷蔵庫の中身もチェックをします。 イングリッドさんはオリガさんの家からスープの冷めない距離に住んでいます。「夫が毎晩仕事の帰り道にオリガのところに寄るのよ」 と教えてくれました。この後、もう一軒立ち寄り、今日は私のインタビューがあるので、9:40にオフィスに戻りました。
2006年03月06日 05:44 | 投稿者: rumi | コメント (0)
雪の田園地帯 夜間の在宅ケアサービス
2月27日(月曜日)
夜間の在宅ケアサービスは16:00から22:30の時間帯。365日の稼動で、
利用者のニーズの時間帯に合わせてスケジュールが決まります。途中でオフィスに戻り、30分の休憩があります。
夜間チームはメンバーが決まっていて4人。毎日2人が働きます。また、4人の誰かが休む場合は、人を派遣する部に連絡すると、
登録されている人がすぐに出向くシステムがあります。
今日はカローラさんとモナさんの日。2人は付いたり、離れたりして、19人の夜間の利用者の家を回りました。その都度、
私はカローラさんに付いたり、モナさんに付いたりしました。付いて回ることを英語では「shadow」というそうですが、まさに、
私は影のように、ノートとカメラを抱えて回りました。
写真はモナさん。21年間、ケアの分野で働くベテラン。夜間の仕事を選んでずっとやってきました。
印象的だったのは78歳と84歳の男性の兄弟が住んでいる家。飾りつけが素敵なのに、どうも「スメリー!」。掃除に関しては、
スウェーデンではある時期から掃除はアンダーナースの仕事ではなくなったのです。アンダーナースはケアの専門職。
掃除は別の専門チームがするのです。在宅の場合、掃除のサービスをすべての在宅利用者が申し込んでいる訳ではないので、
スメリーなケースもある。個人の家の場合、どのように家を片付け、飾り、掃除をするかはプライバシーの問題。個人の自由なのです。
この体験を通して、家事がきちんとできているかいないかは、家に入った瞬間の匂いで判断するようになった私です。
男性の一人暮らしのケースはスメリー・・。
下の写真は去年の秋にも訪問したニルスさんの家。農家の長男で独身の彼は、
親から引き継いだ1843年に建った家に一人で住んでいます。脳溢血で半身付随ですが、この家に誇りを持ち、住み続けています
(スメリーではありません!)。1922年6月30日生まれの84歳。電動車椅子に乗り、精神的に自立。
肉体的にも自分でできることはできるだけします。1日6回のサービスを利用。体重は100キロ近いので、サービスは必ず2人の介護者が必要。
カローラさんとモナさんが合流しました。この日、最後の訪問の時は、ベッドの脇のテーブルに二つの尿瓶、水、葡萄、電話が揃えられました。
カローラさんがポットにコーヒーを入れているのは友達である91歳女性と78歳男性の夜のコーヒータイムのため。
私が写真を撮っていいか聞くと、91歳の彼女はすぐに髪をきれいに梳かしました。カローラさんには4人の子供がいます。前夫の3人の子供と、
サンボ(同棲の事実婚)の夫の子供。働いている間は夫が子供たちの面倒を見てくれるのdす。
自宅はホームケアサービスの事務所のすぐそばです。
夜のケア は案外就寝介助は少なく、足のマッサージ、薬やトイレのチエックなどが多く、
一見大変そうでも、自立している人が多かったです。夜間の走行距離は70キロから100キロ。終了して事務所に帰ると、
10時半を過ぎていました。
2006年03月05日 06:05 | 投稿者: rumi
雪の田園地帯の在宅ケアサービス
2月27日(月曜日)
今日から2泊3日でエスロブ市の北にあるビリンゲという農村地帯に宿泊してエスロブ市の在宅ケアサービスの取材をします。
朝7時にB&B(朝食付き民宿)を出た外の風景が上の写真。在宅ケアの事務所には5人のアンダーナース(准看護師)が揃い、
簡単な打ち合わせをしていました。エスロブ市全体では、409人の利用者がいます。田園地帯と市内に分かれていて、
田園地帯は3つのグループに分かれ、利用者は136人。そのうち、ビリンゲには30人の利用者がいます。
これをいろいろな時間帯で働く19人のスタッフでケアに当たっています。
春が近いなんてブログに書いたばかりなのに、今日は冬に逆戻り。車の雪を払う仕事から一日が始まります。今日、
私はモニカさんというベテランのアンダーナースに、7:00から10:00、30分の休憩を挟んで13:
30頃まで付いて回ることになっています。
最初の訪問はビリンゲの東南にあるスティハグという村に住む一人暮らしの婦人の訪問から始まります。太陽がまぶしく昇っています。
モニカさんは必ず「レディ」という英語で利用者を呼んでいました。
最初に訪問したレディの家は去年の秋にも訪問した家。彼女は1937年から古くて小さなこの家に住み、
一度も結婚をしないままで過ごしてきました。リュウマチで両手が変形してほとんど使えません。3匹の猫を屋外で飼っていて、
えさを作るのもアンダーナースの仕事。モニカさんはポストから新聞を出し、家の鍵をあけ、
奥の部屋のベッドで寝ている彼女の名前を元気な声で呼び、「グモロン」という朝の挨拶から仕事を始めました。
今日は清拭の日。地下のシャワールームにはもう行けないので、台所で身体を拭きます。紙タオルをお湯で濡らし身体を拭いてから、
タオルでその後を乾かし、最後にクリームを塗ります。洋服を着るのは二人の共同作業。ホームケアアラームのペンダントを首にかけます。
メガネを水道で洗い拭きます。左足の傷の包帯も変えました。彼女が歩行器で、台所のテープルに移動している間に、朝食の用意をします。
パンにバターと蜂蜜を塗り、ヨーグルトをお皿に盛ると、ドリップ式のコーヒーがいい匂いを漂わせます。この間、2人の会話が途切れません。
ベッドメーキング。フリーザーから、お昼の食事(ディナーと呼んでいる一番豪華な食事)のパックを取り出し、電子レンジに入れておきます。
モニカさんは薬を引き出しから取り出し、水の入ったコップと一緒に渡します。最後に、黄色いノートを取り出して、薬が済んだサイン。これで、
一日、4回の彼女への訪問のうちの朝が終わりました。この間、30分。食料品の買い物と部屋の掃除は隣に住む、65歳の友人がしてくれます。
食器を流しに片付けるのは彼女が不自由な手を使い自分でしていました。
この後は、93歳の元気な女性の家、80代のかなり散らかった男性の家、
リューマチを患いながらも元気な75歳の女性の家、古い農家に夫婦で住む家、と4軒を回ります。
おしゃべりを快活にして安否確認をするだけの家、頭にアミカラーを巻いてあげ、コーヒーを一緒に飲む家など、
臨機応変に利用者のニーズに合わせて滞在の形が変わります。
この間、何度か携帯で他のアンダーナースと連絡を取ります。オフィスに戻ったのが、11時17分。 鍵を金庫に戻して、コーヒーブレイクが待っていました。
短い休憩を終えて、また、昼ごはんに合わせて訪問。この日、 朝からお昼にかけてのモニカさんの仕事が終わったのが午後1時30分。車の走行距離をノートに最後に記帳します。今日は54キロでした。 「車でスコーネの、地平線まで広がる畑の中を走っていると幸せな気持ちになるの」とモニカさんは語りました。」
2006年03月05日 01:25 | 投稿者: rumi | コメント (0)
早春賦
2月26日(日曜日)
春はすぐそこ。今日の日曜日はさわやかなお天気でした。 教会のミサに出席した後、ヴィンセント君のおばあちゃんの家に寄りました。6000㎡の庭で春が息づいていました。 おはあちゃんは土の中から吹きだした新芽のそばに古い靴を置いていました。「こうすると、 野うさぎが人間のにおいをかいで芽に近づかないのよ」と教えてくれました。その言葉を聞いて、自然の近くで暮らしているのだと思いました。
「先日の椅子が完成したのよ」とウッニさんが自分の部屋に連れて行ってくれました。 布を張っている最中の椅子がきれいに完成していました。椅子の上に置いてあるぬいぐるみはウッニさんが子供の時のもの。まだ、 とってあるのだとあらためて感心しました。64歳になり、子供時代に使っていたものを部屋に飾れるなんてお洒落。ピンクのセーターも、 白いペチコートもみんな小さい時のものです。
2006年03月04日 07:11 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ルーテル教会のミサ
2月26日(日曜日)
スウェーデンに来てキリスト教のミサに預かるとは思いも及びませんでした。
ヴィンセント君の血のつながらないおじいちゃん、つまり、おばあちゃんの夫のペルさんがルーテル教会の牧師さんなのです。ヴィンセント君が
「ペンショナー(年金生活者)となったおじいちゃんが日曜日にあげるミサにいらっしゃいませんか?たまのことなのでので、いかが?」というメールをくれたので、マルモの近くのUPPAKRA
(Aは頭に○がつきます)という教会まで、お父さんのウルフさんの車でお母さんのカメラさんとヴィンセント君とで出かけました。
上は30分前に教会に入るペルさん。
スウェーデンがカトリックからプロテスタントに改宗したのは16世紀のはじめ、グスタフ・ヴァーサ王の時代です。
1523年にはスウェーデン語の聖書が刊行されyています。
おじいちゃんのミサは、“不良カトリック”の私にも魂がやすまるミサでした。スウェーデン語がわからない私ですが、
式次第がカトリックと酷似しているのに驚きました。もともと、ルーテル教会はカトリックに近いミサをあげますが、この日のミサはまさにカトリック。一般的なプロテスタントの礼拝とは違いました。つまり、
ヴァーサ王は政治的な理由で改宗したので、宗教的には変える必要がないのだとわかりました。ミサで感じたのはペルさんの声のすばらしさ!声、
発声が人に影響を与えることをあらためて認識しました。
隣の席で聖歌を歌うおばあちゃんのウッニさんのソプラノも絶品。
ウッニさんはルンドの音楽学校から、ストックホルムの音楽大学を卒業した本格的名オペラ歌手。結婚して21年、この間、ペルさんのミサを、
ウッニさんは美しい歌声で支えてきたのです。ペルさんは「今日は日本からお客様が来ています」と私を紹介してくださいました。
聖体拝領も受けました(キリストの最後の晩餐の儀式)。教会の中に十字架の大きなのがないのが、唯一のプロテスタントらしさでした。
もう一つ、異郷でミサを受け、あらためて気がついたのは、日本の茶道のお手前はカトリックのミサにヒントを得たに違いないということです。
千利休が、当時の日本の国際都市であった堺でミサに出席する機会があり、聖体拝領を見て、
その一部の所作を茶道に取り入れたのだと思いました。 ミサが終わると、
信者の皆さんがコーヒーを飲んでいる姿が印象的でした。ミサを通して、昔のスコーネの人々を垣間見た思いがしました。
2006年03月04日 06:40 | 投稿者: rumi | コメント (0)
Seema
2月25日(土曜日)
通訳をお願いしているシーマ(Seema)さんが、エスロブの隣町のLUNDルンドを案内してくれました。インドで生まれ、
ほとんどをイギリス人として過ごした彼女はルンド大学でたんぱく質の研究で博士号をとっています。病気をしたために、
今は仕事をしていませんが、毎週月曜には今も大学の研究室に顔を見せています。そんな、彼女が自分のフィールドを私に見せてくれたのです。
ルンドは日本でいえば京都のようにしっとりした古い町。地図を見ているとルンド大学の建物の壮観な連なりがあり、学園都市そのものです。
学位の授与式があるのは上の建物。なんとも誇り高き建物です。前に凍った噴水がありますが、 授与式のある6月にはこの噴水に飛び込む人がいるそうです。さらっと、なぞるように町を歩いていると、 タコスのテイクアウトの店がありました。ボリームたっぷり、野菜たっぷりで20クローネ(280円)、2人で1つを食べました。
彼女が自己紹介のようなつもりで中を案内してくれたのが、ルンド大学医学部。スウェーデンでは、
1992年のエーデル改革で、県が医療、市がケアと棲み分けをしたので、エスロブの人が手術を伴う病気になったときには、
この病院に入院します。ヘリコプターが着陸できる設備がビルの上にあります。装飾がいたる所にありますが、病院はやはり病院、
サービスハウスはサービスハウス。医療とケアの環境の違いがわかりました。
ここはシーマさんが数年前に手術を受けた大学病院です。 「ここから、コペンハーゲンが見えるのよ」と入院していた病棟を紹介してくれました。この日は曇っていて見えませんでしたが、
14歳を頭に3人のお嬢さんがいる彼女が、どんな思いで宙に浮く天守閣のような窓から遠くを眺めたのかと思いました。
今、彼女は生き生きと暮らしています。
2006年03月04日 06:02 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ブッティルさんとマルガリータさん 初孫誕生まじか
2月24日(金曜日)
この素敵な笑顔のご夫婦がブッティル(65歳・右)と奥さんのマルガリータさん(66歳)です。 マルガリータさんは1つ年上の姉さん女房。2人のお嬢さんがいて、下のアンさん(写真の茶の服の女性)がもうすぐ40歳で出産をします。 二人は初めておじいちゃんとおばあちゃんになるのです。
二人の出会いはマルガリータさんが18歳で、ブッティルさんが16歳の時。隣町のルンドです。 数年後に結婚した2人は、フットボールの選手だったブッティルさんのために、チームのあるエスロブに移り住みました。 とここまでは一般的な話ですね。私がお二人に興味を持ったのは、マルガリータさんが、ブッティルさんの在宅介護をしているからです。 スウェーデンの高齢者ケアの60%が「沈黙のケア」と呼ばれる家族による介護ということは案外知られていません。
2006年03月03日 08:55 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ブッティルさんとマルガリータさん 続き
2001年2月の金曜日の午後のことです。2人の人生は、
ブッティルさんが脳卒中の発作で突然変わります。トルホゴーデンというサービスハウスの地下の電気室で彼は倒れていました。
保全という1人でやる仕事柄、発見が遅くなり、後遺症が残りました。一命を取り留めたブッティルさんは、
エスロブのシャラオカという施設で過ごすことになり、リハビリが始まります。一方、サービスハウスで働いていた准看護師(アンダーナース)
のマルガリータさんと別れて暮らす辛い日々が始まりました。
その窮状を助けたのが、ONTANKEN(思いやり)というディサービス。
マルガリータさん自身も決断しました。定年まで3年を残して仕事をやめ、
ブッティルさんを在宅自らケアすることを決めたのです。マルガリータさんが話を始めると、いつも笑顔のブッティルさんの顔が曇り、
涙が頬を流れました。マルガリータさんの目にも、お嬢さんのアンさんの目にも、思わす私の目にも涙が出てきました。
マルガリータさんはLSSという障害者の法律が2人を救ったと語りました。
65歳以下で脳に障害を持つブッティルさんは月に59時間のケアサービスが受けられます。
そのうち52時間をアンダーナースの資格を持つマルガリータさんが有給で働き、火曜日の7時間は市のケアを利用することができるからです。
そして、毎週、月曜日にデイサービスを利用しています。(しかし、ブッティルさんが65歳を超えるので、障害者ケアが年金に切り替わり、
この形での利用ができなくなります)。
マルガリータさんはケアのベテラン。下の階段を上り下りできる車椅子も操作できます。また、 トイレやベッドから車椅子への移動にはリフトが活躍。スウェーデンの男性の在宅ケアは社会資源のたまものです。2人はとてもポジティブ。 NHRという脳障害の人たちの全国組織に属していて、コペンハーゲンやドイツのクリスマスマーケットを同じ障害を持つ仲間と旅しています。
2006年03月03日 08:46 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブの歴史
2月24日(金曜日)
死にそうに忙しかったのが、この週です。今回の滞在の山場の、エバ・ オストンさんのインタビューが終わったのが昨日。しかし、今朝もインタビューが2つあります。 自分で決めたスケジュールだから仕方がないとしても、「たーいへん!」。今日はピープルズ・ ハイスクールと呼んでいる20歳を過ぎた人がもう一度学びなおす学校の前校長のエジ・クレボーンさんへのインタビュー。 ピープルズハイスクールは私が滞在している学生寮の学校です。
エジさんへのインタビューのタイトルはエスロブ市の歴史。今回は質問表を作らずに、 通訳のシーマさんに事前に私の聞きたいことを話しておいて、インタビューに臨みました。場所は市庁舎の会議室をクリスチーナさんが貸してくださいました。エジさんはたぶん60代後半から70代。 実はいつも必ず聞くようにしている年齢を聞き忘れました。エジさんのお話がとても楽しく、聞き忘れてしまったのです。 エジさんが開口一番に話したのが「僕はジャーマノヒという日本人を知っているよ。彼にルンドで会ったのは確か90年ごろだね。 彼は日本の高齢者ケアをもっと良くしたくて、スウェーデンに来いたんだ。そう、『世界の高齢者ケア』というようなタイトルの本を書いたんだ」 「政治家になったはずだよ」
ジャーマノヒ氏が誰かを当てるようなクイズのようですが、私は、エジさんの最初の一言で、 それは山井和則氏だとわかりました。このブログ、民主党の議員の山井氏の秘書の海野仁志氏にもお送りしています。 見てくださっているといいのですが、メールを別途お送りしなくてはいけませんね。エジさんはお元気です。ただ、奥様はお加減が悪いらしく、 それがエジさんの顔が時々暗くなる原因です。
下はエジさんが書いた成人学校であるピープルズ・ハイスクールの歴史の本です。 エジさんのインタビューのテープはまだ手付かずにいるので、詳しくは書けませんが、 エジさんは1937年にエスロブに越してきた少年時代に垣間見た、エスロブで農業が産業化していく話をしてくださいました。 スウェーデンやデンマーク、それにスイスなどは第1次、第2次世界大戦に参戦をしなかっただけではなく、農業を産業化して、農民が力を持ち、 現在の貧富の差の少ない社会を生み出した国のひとつ。デンマークもそのモデルでしょう。農民が農業で商売をしたのです。 その典型的な例がFELIXの話。 1938年にナチから逃れてきたチェコスロバキア人のFELIXという人のピクルスのサクセスストーリーです。 スウェーデンの南にあるスコーネはヨーロッパ大陸の窓口として、多くの外国人が入ってきて、そこで、 新しい風を吹き込んだとエジさんはいうのです。
生野菜の少ないスウェーデンで、きゅうりは育てることができる数少ない野菜の一つ。これに、 女性の社会進出が加わり、話が展開します。フィリックス氏は社会進出を少しずつ始めた女性たちが自家製のピクルスを作るのではなく、 商店で同じものを買えるといいと思いついたのです。これにプラスティックの発明が加わります。今も、 DOMOSというスーパーでもこのピクルスを売っています。ちなみにDOMOSは社民党系のスーパー。 女性の社会進出に伴い作られた労働者のスーパーです。しかし、最近はどうも高いという評判です。・・ということで、 この後のトマトケチャップの工場がエスロブに作られた話も含めて、エジさんは、たくさんの話を聞かせてくださいました。
2006年03月01日 08:15 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブ市の福祉の総責任者 エバ・オストンさん
2月23日(木曜日) 午後3時~4時半
この日は麻衣子さんの学校を訪ねた後、学生寮に帰り、準備をしてから、今度は市庁舎に向かいました。 もちろん、歩いて。万歩計をつけているのですが、簡単に15,000歩を超え、20,000 歩を超える日もあります。今日は、 待ちに待った、福祉の総責任者であるエバ・オストンさんへのインタビューです。質問表は入念に用意して、前日の午前中に直接市庁舎に持参、 私の世話を焼いてくださるクリスティーナ・ウォーミングさんに手渡ししました。事前にエバ・オストンさんに見ていただいています。 通訳のシーマさんとタウンホールで待ち合わせ、取り次いで下さるクリスティーナさんを待ちました。
エバさんはピンク色のセーターを着て、気さくにいろいろと話をしてくださいました。
エスロブ市の人口は30.000人。コミニュンと呼ばれる市で働く職員が2000人。 その中の最大の人数を抱えるのが、エバさんの部署です(800人)。日本の国に例えれば厚生労働省のトップという方がわかりやすいでしょう。 この部署は昔はソーシャルサービスといわれていましたが、今はバード・オッケ・オムルグと呼ばれています。バードは「VARD」 でAの頭に小さな○が着きます。意味は、看護とかケアという意味。オッケはOCHでアンド。スウェーデン語を聞いていると、よく「オッケ」 と聞こえるので、最初は何でOKばかり言うのだろうと不思議に思いました。オムソルグはケアとか気遣いという意味です。 実はそれぞれのコミニュンがこの部署をそれぞれの呼称で呼んでいるそうです。
エスロブ市は2003年から組織替えをして、この呼称で呼ぶそうになったとのことです。エバ・ オストンさんはもともとがソーシャルワーカーの出身。1970年代の10年間を子供と家族のケアの分野で働きました。80年代には、 働く女性のますますの増加とともに、青少年の分野の福祉の仕事が大きく転換した時期で、ドラッグの問題などが起こり、 青少年のケアの分野で働きます。2000年からエスロブ市の現在のトップの仕事に就いたそうです。
彼女が受け持つ、エスロブ市の福祉の分野は毎年大きな変化をしています。その中でもエバ・ オストンさんが一番力を入れているのが、ケアの分野で働く人々のやりがいを作り出すこと。呼称が変わって一番変化したのは、 この分野で働く人々がこの仕事に誇りを持てるようにしたことだと語りました。
写真があまり取れませんでした。3時から1時間半のインタビューを終えて、通訳のシーマさんと少し話をして岐路に着くと、淡い紫色の夕焼けがとてもきれいで、 春が近づいているのを空の色に感じました。
2006年03月01日 06:37 | 投稿者: rumi | コメント (0)
麻衣子さんは学校が大好き
2月23日(木曜日)
学生寮のもう一人の日本人である星名麻衣子さんは、昨年6月から、高齢者ケアのインターン生として、 エスロブのサービスハウスなどで実習を重ねています。明治学院大学の社会部社会福祉学科の卒業生です。ここに来る前は、 千葉県にある私立の老人ホームで働いていました。ターミナルケアなどのスウェーデンのケアを学ぶことが実習の目標。 そんな麻衣子さんは昨年秋から「外国人のためのスウェーデン語教室」に通っています。 2004年に滞在したマサヨさんに続いてここで学ぶ2人目の日本人です。一昨日、 移民の問題をエスロブ市の職業安定所のラルスさんにインタビューしたので、資料を調べているうちに、この学校について知りたくなったのです。
最初の写真が専門高校。専門学校の奥にあるのが上の写真の、SFIと呼んでいるスウェーデンの移民、 難民、その他外国から来た人がまず最初に語学を学ぶのがこの学校です。もちろん、無料。 言葉が話せないと仕事につけないからです。3番目の日本人として、この学校で学んでいるのが、 ご主人の仕事でこちらに来ていらっしゃる杉 晶さんという女性(勝手にお名前を出してごめんなさい)。 ここでは各国から来た方が学んでいます。韓国系のアメリカ人の女性、タイの女性、ポーランドやシリアの女性などです。下はパソコン教室。 パソコンが使えないと仕事ができないので、親切に授業を設けています。 ここでは語学を学びながらスウェーデンの国や文化や社会システムを学びます。写真手前のユニさんは韓国から来た女性。サンボ (籍を入れない事実婚)のスウェーデン人の夫がいます。とても親切で、麻衣子さんが一人(サンボでもなく?)で暮らしているので、 淋しくはないかとよく家に招待をしてくれるそうです。
下は教室や職員室がならぶところにあるホール。キッチンの場所があり、食事やお茶ができます。 ちなみに、1番最初の写真はジムナシエットという専門高校ですが、レストランのすべて(調理からサービスまで)を教える学科もあり、 ここのバン屋さんのパンがとても美味しく、しかも安いそうです。
麻衣子さんは学校が好きで好きでしょうがないそうです。それは、いい友達がいるだけではなく、 素晴らしい先生がいるから。右は主任さんのライラさん、左はエバさんです。実はさっそくエバさんにインタビューを申し込みました。 詳しくもうすぐブログでご紹介します。ちなみにライラさんは、私の去年のブログにでてくる浩江・グンナソンさんの知り合いです。 浩江さんは40年前にエスロブコミニュンに含まれるビリンゲという村の生まれで、ジャーナリストのブーさんに嫁がれました。「世間は狭い」 という言葉がライラさんの口から出た時には、なんだか、日本にいるような気持ちになりました。廊下にも絵が飾ってあります。
2006年03月01日 06:03 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ヴィンセント君の小さないとこ
2月22日(水曜日)
学生寮から急に学生さんの姿が消えたと思ったら、今週はスポーツウィークですべての学校がお休みだったのです。「国中がいっせいに!
」ではなく、南から始まり、来週は北の学校が休みになるという順番だそうです。ヴィンセント君からメールが入りました。
「おばあちゃんのウッニさんとおばさんのカタリーナさんと、昨年生まれたオットー君が来るので、遊びに来ませんか」というのです。
おばさんのカタリーナさんは36歳。ルンドに住んでいます。国立スウェーデン放送のディレクターをしていますが、今は産休中。
スウェーデンでは男の人も産休が取れますが、カタリーナさんの場合、
ご主人はパイロットでストックホルムを本拠にしている上にとても忙しく働いているので、産休を少し長く1年2ヶ月とっています。
1年間のケースが多いそうです。
誰もがオットー君に夢中。ほんとうにかわいい。それに、神経質ではなく、子孝行の赤ちゃんです。 驚いたに、私がヴィンセント君の家に着くと、雪の残るこの日、オットー君は外で日光浴をしていました。この乳母車、実に堅牢。 オットー君は寝袋に包まれています。冬でもスウェーデンの保育園では日光浴をよくするそうです。写真はフィリッパちゃん。この日は、 家族で30分、家の周りを散歩しました。もちろん、おばあちゃんのウッニさんも一緒です。秋に散歩した時にくらべて、 住宅が増えたのに驚きました。エスロブは人口が今増えつつあります。
料理好きのお母さんのカメラさんのこの日のメニューはアフリカ料理のクスクス。クスクスと小さなえび、 ブロッコリー、パプリカ、ねぎなどの生野菜をフレンチドレッシングでいただきました。お客様料理に向いているので、 日本に帰ったらマネをする予定です。オットー君は食事をあまり食べないのが、ママの悩みのようです。 おばあちゃんのウニさんが長女のカメラさんを産んだのは22歳の時、「36歳でママになるカタリーナさんをみて「時代が変わったわね」 とはウッニさんの感想です。
2006年03月01日 05:48 | 投稿者: rumi | コメント (0)
毎週火曜日、「カリダール」での年金者組合の音楽の集い
2月22日(火曜日)
ラルス・アンダーソンさんへの職業安定所の取材が終わり、その足で通訳のシーマさんとカリダールという高齢者の集会場に足を向けました。
先週、「男の料理教室」の皆さんが作った鹿肉のシチューをご馳走してもらうことになっているからです。美味しいシチューを楽しい会話でご馳走になった後は、
2時から大きな部屋で音楽の集まりがあります。
毎回、違う人がリードしているこの会は年金者組合の集まりです。 今日の演奏担当はアコーディオンの2人の男性です。ざっと数えて、約50人が集まっていました。 このカリダールは昔に比べて人が自然に集まるようになったという話。気をつけているのは、一切、強要をしないこと。 楽しくていい雰囲気ならひとは自然に集まるからというのが担当のアグネッタさんと、ユニット・マネジャーのスタファンさんのモットーです。
一番右にいる電動車椅子の方はテナー。うまくマイクを支えて、 先週の火曜日はいいのどを聞かせてくださいました。下の黒い服を着ている女性は年金者組合の方です。何度かお会いしていますが、 お名前を聞き忘れてしまいました。今回は年金者組合のインタビューができないかもしれません。 彼女がコーヒーを入れている女性は80代ですが、最近結婚したばかり、写真に写っていませんが、隣に熱々の90代の彼が座っています。 3月に入ってからインタビューを申し込みました。
下の写真の男性は私が写真を撮っていたら、「僕、あなたのことを取材しているの」 と茶目っ気たっぷりに私の写真を撮ったので、お返しに私も彼の写真を写しました。
前回の滞在で気がつかなかったことで、今回、気がついたことがあります。スコーネの人々の顔が、
同じ北方ゲルマンのスウェーデン人の顔でも、ある種のスコンスカ(スコーネ人)の顔があるということです。東京の私から見ると、
藤山寛美の顔は典型的な大阪人の顔だと思いますが、そんな感じです。
スコーネの方言はストックホルムの人が理解できない独特の訛りがあるそうです。スコンスカと自らを呼んで、王国の旗もあり、
一つの独立国のように思っている節があります。カリダールの集会場に来たり、町を歩いていると、いかにも、という方にたくさん会います。
2006年03月01日 05:35 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブのハローワーク
2月21日(月曜日)
今日はエスロブにあるArbetsFormedlingen というところに行きました。Arbetsは労働という意味、つまり、
ここは職業安定所、ハローワークです。ここの所長さんのラルス・アンダーソンさんに移民の方の就労についてのインタビューをしました。
入り口は下の写真で、エスロブには平たい建物が多いのに、駅の近くにあるこのビルは縦長。10:00から開きます。
1階にあまり広くないロビーがあり、相談窓口があります。
事前に下見に行った時には10人ぐらいの人が情報をコンピュータで調べたりしていました。カウンターに座れるのは一人。
女性の係りの人が相談にのっている場面に出会いました。狭い螺旋階段を4階まで上がるとラルスさんの部屋がありました。
「エスロブの失業率は4%」とラルスさんから口頭で伺ったのですが、統計資料で確認するのでお待ちください。スコーネ地方の資料によると、
スコーネの失業率は4,4%(ただし、2001年のもの。measures を加えると 6,
7%)。スウェーデン全体では3,5%(同5,8%)。数値の取り方に違いがあるので、簡単に比較できないと思いますが、日本では、
2005年12月の完全失業率は4,4%です。もっと、人数が多いような気がしますが。
スウェーデンの職業安定所の仕事は失業手当を支給することより、 職業訓練をして技術を身につけてもらい職業紹介をするという積極的な労働市場政策をとっています。話を聞いていると、 ラルスさんの仕事は、 彼がキャリアを積み重ねてきた教育との関係が深いことがわかります。彼はこの仕事に着く前は、 エスロブの教育を統括する仕事をしていたからです。
また、移民の多いスウェーデンでは、 ハローワークの仕事は、即、移民問題と重なります。ラルスさんは「人間は仕事があれば、 気持ちよく生きられるもの」と語ります。また、若者の失業率が高いことも課題のようです。 学校を卒業した若い人はテンポラリーな働き方やパートタイムなどでまず働きます。自分が目指す勉強を続け、 きちんとした職業につこうとしていますからです。「本格的な仕事につくのは30代をすぎてから」 というのが通訳のシーマさんの意見。20代は勉強勉強ということになります。
移民、難民問題
ラルスさんは、
バルカン3国、
ソマリア、アフガニスタン、イラクから来る人が多いと答えました。ベトナム、チリ、ボスニア、コソボからの人もいると答えます。
エスロブの人口の17%が難民、移民の人々。これはスウェーデン全体の比率とほぼ同じということです。5人にひとりです。
「アメリカに多くの移民を送り出したことが、移民や難民の人々への理解につながりますか?」 という私の質問に、ラルスさんは「それも一つの理由です」と簡潔に語りました。実際、 私はサービスハウスで働くたくさんの難民の方々に出会いました。なかでも、バリア・ゴーデンという地域のサービスハウスでは、チリ、 パレスティナ、イラクの方々が働いているのを見かけました。彼らがアンダーナースの資格を取得して、 スウェーデンの人々と遜色なく働いている姿を見て、「これこそスウェーデン」と思ったものです。
難民が出始めたのは1989年のベルリンの壁に象徴される冷戦崩壊。地域紛争が多発したこと。 この状態は今でも続いています。多くの難民が生活しやすいスウェーデンを目指しています。外国人労働者受け入れの歴史は長く、 最初は移民から始まります。ロシア革命、ナチや共産主義から逃れた人々、 第2次世界大戦後の好景気における労働力不足により始まった積極的な移民労働者の受け入れ策に便乗してスウェーデンを目指したイタリアやオーストリアの人々などです。
ラルスさんの写真を撮り忘れました。こんど、付け加えます。 スウェーデンの雇用政策に関しては勉強が必要だと思いました。
2006年02月26日 06:11 | 投稿者: rumi | コメント (0)
3つのスーパー比較
2月20日(日曜日)
今日は、終日、パソコンに向かっていました。これでは健康に悪いと思い外に出ると、トルホゴ- デンというサービスハウスで働いているレイナさんとご主人に会いました。エスロブは町が小さいので私のような短い滞在でも、顔見知りができ、 町を歩いていると誰かに出会います。買い物はないけれど、3つのスーパーを見て回ることにしました。これまではDOMOSオンリーでした。 が高いと評判なので、線路の向こう側まで足を伸ばしました。
O&Bは線路をはさんで駅の反対側にある格安の店です。しかし、陳列しているものに魅力がなく、
案外すいていました。
私が魅力的だと感じたのはICAです。デリカテッセンがいいし、 チーズもイタリアのものも含めて種類が多いし、肉も美味しそうに陳列をしています。魚は大田区の雪谷にある地元の魚屋の方が数段新鮮な感じ。 鰊を抜かし、スコーネの魚はぐったり疲れているようで利力に欠けます。ビジュアル・ マーチャンダイジングという商品の品揃えとその魅力を引き出す陳列方法がありますが、まさにICAはそれを地でいっています。というわけで、 この日、ついつい、買い物をしてしまいました。
大いに贅沢をしたのが、ステーキです。といってもなかなか美味しそうな子牛の肉が330グラムで800円。2回、3回に分けて食べる量です。
パスタのトマトソースが一瓶216円。スバゲッティが500グラムで129円。フルーツヨーグルトが1リットルで245円。
オリーブの入ったクリームチーズが143円。ゴルゴンゾーラチーズがひとかけで490円。これに12%の食料品の消費税がつきます。
そんなこんなで贅沢をしたと反省をしました。 物価が低いのですね。
肉は美味しかったし、ゴルゴンゾーラチーズ、パスタのソースもなかなかでした。 1940年代にスウェーデンの経済成長とともに、2国間協定を締結したイタリー、ハンガリー、オーストエリアから移民が入ってきます。 そのおかげでイタリア料理はとてもスウェーデンではポピュラーです。今日はワインを開けて、ステーキとパスタにしました。カロリーが高そう! 下の写真は子供が子供用のカートを引いて、親の買い物についていることです。
2006年02月26日 04:09 | 投稿者: rumi | コメント (1)
妻に先立たれても自立して生活を楽しむ
2月20日(月曜日)
男のハウスキーピングは合理的。けれど、彼の場合は細かいディテイルまでエンジョイしている!そう感じたのは、ウッレ・
オルソンさん、77歳の家を訪ねた時です。彼は「男の料理教室」のリ-ダーです。お茶によばれたので、
午後2時にウッレさんの家を訪ねました。駅からすぐそばです。ダイニングキッチン、居間と寝室というペンショナー(65歳以上の年金生活者)
が住む典型的なアパートです。掃除が行き届いていて、温かな空気を部屋に入った瞬間に感じました。クラシックの音楽が低く流れていました。
いつも音楽を聞いているのだそうです。「テレビはあまり見ないけれど、ビデオで映画は見るよ」
とダビングしたビデオのコレクションを見せてくれました。
彼のハウスキーピングのすばらしさは台所の清潔感。調味料の洒落た並べ方だけを見てもわかります。料理好きな彼の台所は魅力的。 この調味料の上に古いクッキーや紅茶の缶が並んでいます。こちらでは懐かしい古い缶をのコレクションをしている方が多いです。 飾り付けに細かな神経が行き届いています。
彼は料理が得意だけではなく手芸も得意。ウッレさんが私たちに見せたかったのは、プチポワンという刺繍です。
このプチポワン、オーストリアの修道女が昔やっていたもので、とても繊細な刺繍で技術が要ります。私が働いていた 銀座和光
ハンドバッグ売り場に、35年ぐらい前、
陳列していた本場オーストリアのプチポワンのパーティバッグの値段は35万から50万もしていました。
家庭を中心に発達したスウェーデン刺繍の大まかさとは違い、目が細かいのです。。糸の取り方に番号を振り、
彼なりの工夫をしているのが、上記の写真。
スウェーデンの画家が昔描いた絵を刺繍で再現したのが、下左の絵です。 糸と布と下絵がパッケージで売られています。これは出来上がりまで4ヶ月かかったそうです。ああ、 手芸が苦手な私はスウェーデンには住めない・・。スコーネの人々の手仕事へのこだわりはかなりです。器用な日本人が、戦後、 瞬く間に失った手芸、洋裁、手工芸が今もここに残っています。日本でも伝統工芸の職人さんには長寿の方が多いですが、 手仕事はボケ予防に最適。それに没頭していると、孤独感を忘れるでしょう。「女がすなる刺繍」 を男の沽券にかかるなどといわないでトライしている姿に感服しました。若い時にはもちろんやらなかったけれど、 亡くなられた奥様の手ほどきである時から突然始めたそうです。
彼の趣味の範囲は広く、料理、お菓子作り、刺繍、木製の飛行機のプラモデル作り、カメラ、読書などなど。
読書に関しては「ブックミーティング」の10人で構成するグループを持っています。今はスコーネの歴史をみんなで読んでいるそうです。
同じぐらいの規模の女性のメンバーが多いグループがもうひとつあり、今年、5月に二つのグループ合同で、
今読んでいる本に登場するスコーネの町を訪 ねる小旅行を計画しています。
「ひとり暮らしを淋しいと感じたことはありませんか」という私の質問に、「淋しいと感じたことはないよ。
ひとりでいたい時もあるし、アメリカに44歳の娘がいるんだ。エスロブには49歳の息子がいるしね」とたんたんと答えます。去年、
娘さんが住むアメリカのノースカロライナ州を訪問した時の旅行記が下記の写真のファイル。
文章と写真がセンスよく編集されています。
1997年に妻がなくなり、妻をとても愛していたから本当に悲しかった。しかし、ためらうことなく、
すぐ家を売ってここに引越す決断をしたといいます。子供たちが驚くほど早く、今の環境を作り出したそうです。
自分は誰にも依存しないで生きていると語ります。毎日を忙しく、健康に、ストレスを避けて過ごせればそれで十分だと思っているそうです。
この日、通訳をしてくれていたシーマさんが言いました。「子供への最大のプレゼントは親の自立ね」。印象的な言葉でした。
エスロブの元気な高齢者は、自分の人生の意味「ミーニング・オブ・ライフ」を自ら探し出し、忍耐強く行動していると感じました。
日本では高齢者の一人暮らしを危惧する向きがあります。高齢化社会を支えるものは「人に依存しないで生きる」
「ひとりの時間を豊かに過ごせる」この2つだと実感しました。ウッレさんは、毎朝、鏡を見て自分で自分に「おはよう」と語りかけて一日を始めるそうです。
彼を物語っているのが、下記のノートの記録。1962年から、
お天気と気温を一日も欠かさずに記録しているそうです。シーマさんと驚きの声を上げてしまいました。
何でも小さな積み重ねが価値を作り出すのですね。
2006年02月22日 01:46 | 投稿者: rumi | コメント (0)
窓からの眺め
2月18日(土曜日)
上記は晴れた初秋の日に撮ったあるサービスハウスの部屋の写真です。
この部屋の主人公の71歳の女性と私は、去年、とても仲良しになりました。
何度も遊びがてら彼女の部屋を尋ねたものです。彼女は、ケアを受けるにはまだ若すぎます。絵描きだった愛する男性が亡くなり、
その喪失感がら立ち直ることができずにいるうちに、心臓の発作を起こし、一人暮らしが無理になしまりた。
2人のお嬢さんが毎日のようにお母さんに会いにきます。お孫さんの写真も飾ってあります。早く、彼女に会いたいと思いながら、やっと、エスロブについて16日目に会えました。秋に帰国する時、
私は彼女が昔描いたという絵をお土産にいただきました。私の宝物です。
昔、彼女が描いたというその絵は、不思議と彼女の部屋から見える風景に似ています。
そのサービスハウスは、日本の特養から見たら夢のような環境です。でも、空気が動いていません。私は彼女の部屋にいると、
時間がここでは止まっている錯覚にとらわれます。テレビのスイッチも入れず、音楽も流れていません。
ケアをする人がお茶の時間やお昼を持ってくる以外は人の出入りが少ないのです。2LDKの自宅に近い環境を再現しているにしては、淋しい。
ひとりで過ごす時間が長いのです。日本のようにかまうということが少ないかもしれません。
気がつくと、スウェーデン語が話せない私も、彼女がよく眺めるように、首を窓の方向に向けています。
秋は大きなポプラの木が黄葉して、丘を吹き抜ける風にスローモーションのような動きで梢を大きく揺らしていました。
彼女はいつも飽きることなくその動きに見入っていました。老いるのは大変だなと思ったものです。
ケアが必要になるということは、自分から能動的に生活の雰囲気を作り出せなくなる。落ち込むことなのでしょう。
この美しい部屋にはいつも悠久の時が流れています。この日、彼女の住むサービスハウスまでは、
こんな写真のような雪道を歩いてきました。そして、気がついたら、7時近くなっていて、帰りはこんな暗い道を歩いて帰りました。
2006年02月21日 14:03 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブの経済行政はまかせて
2月17日(金曜日)
これがエスロブ市の市庁舎のエントランスホールです。いつも、作家物の展覧会が開かれています。 この日は絵が展示されていました。今日、午前10時からインタビューをするのは、イヴァン・ヒットラーさん。 エスロブ市行政の経済担当責任者です。なんだかいかつい名前でお会いする前から緊張していました。統計的な資料が欲しいので、 日本であらかじめリストアップしていたのを、英文でまとめ直すのに約3日かかりました。質問表作りも大変でした。 この日からスウェーデン語を英語に訳す通訳を頼むことになった、インド系イギリス人の精神科医のシーマさんが、何度も訂正をしてくれ、 何とか、事前に質問を渡すことができました。
彼とは何度か前に会っていました。 上の写真は去年の4月に初めてエスロブに来た時のもの。市庁舎のレストランでお昼をいただいた時の写真です。左から2番目が彼。 この時の印象と違い、イヴァンさんは実に楽しい人でした。通訳のシーマさんが優秀なので、2倍も仕事がやりやすくなりました。 スウェーデン語の資料を訳す仕事も彼女が買ってでてくれました。通訳業が彼女の本来の仕事ではないので、格安の価格です。 翻訳の仕事は重要ですが、訳してもらう量が多いので、経済的にも救われました。
イヴァンさんのユーモアのある回答の中でも印象的だったのは、 エスロブがこの10年、経済的に安定している、その原因を教えてくれた時です。「ワイフが上手に家計のやりくりをしてきたからでしょう」。 「というと」と聞く私に彼は原因は2つあるとさも簡単そうに答えました。「1つは元気な高齢者をあまりお金をかけないで増やしてきたこと。 介護の経費が節約できました」「2つ目は、介護職員の仕事への意欲を高めてきたことです」。
2つ目の答えは、 スウェーデンでは長期の病欠者が多いのが問題になっていました。病気で休んでも社会保障が完備しているので、首を切られることなく、 給料に近いお金が保障されるからです。2005年から、その保障の15%を市が負担することになりました。それでなくても、介護職の場合、 病欠者がでると、すぐに、その代わりの人が派遣されます。ピンチヒッターの給料もままにはならないわけです。仕事が楽しければ、 休む人も減るというわけです。エスロブでは介護職の人の帰属意識が高いような気がしました。例えば、 ヴィンセント君のお母さんのカメラさんは、普通の企業で働く方が給料が高いけれど、私は介護の仕事が好きだから、この仕事を選んだのよ」 と答えました。いかに職員を動機付けるかが経済的な安定をもたらしたのです。
趣味はハンティングというアウトドアー派のイヴァンさんは52歳。 皮膚の艶がよく、改めてきれいな男性だと思いました。若い頃は金髪で青い目のいかにもゲルマン民族という感じだったのではないでしょうか。 「エスロブ市は住民から信頼されていると思いますか」の質問に、「信頼されていると思います」と当たり前のように答えました。 無記名のアンケートの結果だそうです。
2006年02月18日 07:19 | 投稿者: rumi | コメント (3)
ゴミ処理問題
2月16日(木曜日)
白百合女子大教授の長島世津子先生から、さっそくにいただいたメールに、 「ごみ処理はどうしているのですか」というご質問がありました。上智大学の長島正先生の奥様です。 ご夫妻は近所に廃プラスティック中間施設が作られることに対して、熱い住民運動を展開なさっているそうです。 詳しくは世津子先生のホームページの「廃プラ問題」をご覧ください。 公共セクターがいかに住民の側に立っていないかということを痛切に感じる内容です。本来なら、 行政が率先して取り組む問題ではないでしょうか。私たちがセルフヘルプをしているのは、やはり、 行政が動いてくれないからではないでしょうか。
長島世津子先生のホームページ http://setsuko.net/
最初、私は家庭でのごみ処理に関しては、 エスロブより日本の方がまじめに取り組んでいるという印象を持ちました。しかし、この「まじめ」もよく考えると、 ただまじめに分別しているだけのこと。
日本の問題は、最近、プラスティックゴミの量がエスカレートしているのに、私たちが鈍感である点です。 わが家の近所の「燃えないゴミ」の日の量は莫大です。これは、いかにプラスティックを生産する会社が儲かっているか。 スーパーが公共的な視点を失って、安易にプラスティックを使用しているか。環境破壊をコントロールするはずの、 公共セクターである行政の視点がずれているかです。日本では資本主義が野放しになり、 社会をコントロールする倫理観が薄れているのはないでしょうか。
長島世津子先生、一度、市庁舎に問い合わせてみます。イギリスでは草の根の住民運動が盛んだそうです。 本当に豊かな生活は、欧米高級ブランドに囲まれた生活でもなく、自分だけ理想的名生活をすることではないのでは。 スウェーデンなどの国々が近代化の中で進めてきた社会改良運動を日本が怠ってきた結果が今の社会ではないでしょうか。 社会を良くしていくことに、生産年齢人口である私たちが時間を割いていかないと、 次の世代が迎える社会に悲劇が待っているのではないでしょうか。長島先生ご夫妻を見習おうと思います。
2006年02月17日 21:59 | 投稿者: rumi | コメント (0)
いのちづな
2月16日(木曜日)
私のいのちづなは「スカイプ」です。 それは私のたった一人の家族である夫と毎日30分話ができるからです。その日に来た手紙や電話、請求書などを夫が教えてくれます。 私の方は晩御飯のおかずの工夫をアドバイスをしています。つまらない会話ですが、話ができることで孤独感が解消されます。 皆さんもスカイプを使いませんか。
スカイプはスウェーデンで発明されたパソコンを使った電話です。 このヘッドフォンをつけてパソコンで電話のように話ができます。ただし、お互いにパソコンがオンになっていないと使えないので、毎日、 翌日の時間を決めます。ADSLを使えるこの学生寮だとスカイプが便利です。そして、30分話しても無料。これが最大の利点です。 スカイプは普通の電話にも、接触できますが、こちらの方は有料です。携帯電話もドコモだと高いので、ボーダフォンを使い、日本との通信、 こちらでの通信に使っています。星名麻衣子さんもスカイプを入れたので、雪の日などはスカイプでお互いに連絡がとれます。
スカイプを私に勧めてくれた半田正浩さんに感謝。そして、 このブログを作ってくれた理学療法士の友清直樹さんに感謝。二人とも20代のハンサムな青年です。
もう一つのいのちづなというより、大切なものは、この40本近い録音テープ。 こちらの皆さんにインタビューをしたものです。テープ起こしがまだ全部できていませんが、聞きなおしてみると、いろいろな発見があります。 テープの隣が項目ごとに整理した資料と10冊近いノート。ノートにはその時々の簡単なメモが入っていて、できるだけ、 早くパソコンに文章化して記録しています。
本はあまり持ってきていませんが、高島昌二さんや岡澤憲芙さん、故外山義さんの 「クリッパンの老人たち」、訓覇法子さん、山の井和則さん、武田龍夫さんのスウェーデン史、大岡頼光さん、集英社新書の「貧困の克服」、 昨年、山陰のシンポジウムにご一緒したフランスの地理学者であるオギュスタン・ベルクさんの「風土の日本」、ラフカデオ・ハーンの 「日本の面影」、神谷美恵子さんの「いきがいについて」などです。特に神谷さんのいきがいについてはハンセンシ病の方々にインタビューして、 考察したすばらしい本で私の座右の本です。そういえば、デンマークについて書かれた本ですが、大熊由紀子さんの「寝たきり老人のいる国、 いない国」も私に北欧への窓を開いてくれた本です。
写真は部屋にぬくもりを作ってくれるので、大切に飾っています。
2006年02月17日 21:15 | 投稿者: rumi | コメント (2)
KARIDALの男の料理教室
2月15日(水曜日)
昨年は施設ケアの取材に明け暮れましたが、今年は元気な高齢者の取材がメインです。ということで、
今日は高齢者のアクティビティの家として知られるカリダールに取材に来ました。男の料理教室です。
道に面したカリダールの建物に入ると中は下の写真のように2階建てのアパートが並んでいます。
ここはサービスアパートと呼ばれているところで、ひとりで暮らすのに不安を抱えた方が入居していて自立した生活をしています。その皆さんが、
遊びに来るのが正面の入り口から入るアクティビティの家です。ここで、実に活発な高齢者の自主活動が行われています。
アクティビティにあたる職員はフルタイムの勤務がアグネッタ・ノーランドさんと50%勤務のアンブリッドさんの二人。アンさんは
「男の料理教室」の先生です。毎月第1水曜日に行われていますが、今月だけ、第2水曜日です。
ちょっと、遅刻をして部屋に入ったら、メンバーがすでにそろっていて、 始まる前のコーヒータイムを取っています。こちらの人はコーヒーが好き。朝はコーヒーブレイクから始まります。 去年来た時は台所が仮ごしらえだったのですが、去年の秋の改装でこんなに素敵なダイニング・キッチンができました。男性に囲まれているのが、 先生のアンさん、赤いセーターの男性がリーダー格で一番若い77歳のウッレさん、アンさんの右が80歳のアンドレさん。 その隣がインド人系イギリスの精神科医のシーマさん、カリダールにはボランティアでよく来ています。シーマさんの隣がボーリアさんで81歳。 手前が前回にはお会いしなかったレナートさん。皆さんからボスといわれているスティグさんは、今日はシャラオカに診察に行っているので、 12時ごろに食事にだけ参加です。
今日のメニューは「Falskanka」 Falskは不正。Ankaはアヒル。安いポークで高いアヒル料理を偽ったもの。「ガンモドキ」ならぬ「アヒルもどき」です。 ポークは1,5キロで88,9クローネ、約1300円です。安いなあ。にんじん、たまねぎ、トマト、プルーンと一緒にオーブンで焼きます。 アリストスという付け合せのじゃがいももボイルします。デザートのコンポートはアンドレさんが脇役料理をまかせてとばかりに担当。 レナートさんはジャガイモの皮むき。にんじんの皮剥きはボリアさん。肉は料理上手のウッレさん。みんな仲良く、息があって、 自然な役割分担で調理が始まります。無口は男性が多いけれど、アンさんの明るい笑い声がたのしく響きます。 シーマさんは控えめに洗い物を手伝っています。
さて、出来上がったお料理が下の写真です。これがおいしかった。本当に豚肉? というがうほどアヒルの味、といっても北京ダッグしか食べていませんが。テープルセッティングをして、みんなでテーブルに座ります。 私もゲストとしてご馳走になりました。スティングさんも帰ってきて加わります。
何より楽しかったのは会話。料理の先生でもあるアンさんが場を盛り上げます。 実はこの男性たちはみな一人暮らし。奥様に先立たれた方たちです。お互いが味わった喪失感を知っているから、 いたわりの気持ちがここに流れています。メンバーはこの料理教室を通じて知り合い、仲良しになり、普段もお互いに行き来をしています。 最後に材料費を仲間で分担します。アンさんは市の職員なので給料は市からでています。台所も市が提供。ただし、材料費は自己負担。 この合理性が優れていると思いました。
2006年02月17日 08:35 | 投稿者: rumi | コメント (0)
朝のささやかな食卓。
2月14日(火曜日)
これが朝の食事です。いちばん気に入っているのは「麦のおかゆ」いわゆるオートミールです。 テーブルの右に置いてあるのがその袋で、スーパーに行くとたくさんの種類がならんでいます。 スコーネはスウェーデンの中で農耕地に恵まれている地域です。地平線まで肥沃な土地が広がり、秋には麦畑での収穫が見ものです。 下の写真は昨年9月1日にビリンゲというエスロブ自治体に含まれる農村の写真。ロールが転がっているのは、麦の束をまとめたもの。 壮観な風景でした。こちらの人にとって麦は生活に密着しています。この麦粥がおいしい。お腹にもいいし、癌の予防にもなるそうです。 夫の姉の夫のポンチャンと親戚から呼ばれている義理の兄は、私が渡したこのオートミールが気に入っているそうです。 ブルーのがおいしいと聞きました。こちらの「ソールフード」なのでしょう。
1860年から1930年にかけて、寒冷地スウェーデンでは農作の不況が続き、飢餓が生じて、 アメリカに130万人もの人々が移民しています。当時の人口の4分の1にあたる数です。日本人が、戦後、アメリカから仕入れた 「オートミール」という食べ物はこのスコーネの畑の麦が始まりではないかしら。ただし、移民の大半は土地が肥えていない、 スコーネの北のスモーランドかららしいです。スウェーデン出身のハリウッド女優イングリッド・バーグマンが、アガサクリスティの 「オリエンタル急行殺人事件」の映画にでるけれど、この小説のストーリーもスウェーデンのアメリカ移民がからんでいます。そういえば、 スウェーデン人の苗字もアメリカ人と似ている。アンダーソンさんなんてその典型。これがデンマークになると、 人魚姫のアンデルセンになります。
コーヒーもおいしいです。 東京の私の家の近所でコーヒー豆を焙煎して販売しているコーヒー博士の細山さんから、スウェーデンのコーヒーはおいしいと聞きました。
お皿のグリーンはブロッコリー。冬はこちらのスーパーでは野菜の種類が実に少ない。今でも、 お年よりは生野菜を食べない人が多いと聞きましたが、もともと、野菜を作っていないのです。ビタミンの供給源としているのが、りんご。 日本の品種改良されたりんごとは大違いの、やせた小さなりんごが、何種類も山のようにスーパーで売っています。だいたい、 こちらの人は庭にりんごの木を植えて、りんごは買わないという人が多いです。食卓の青いりんごはシシリア・リンド市長からいただいたもの。 たった1つですが、まだ、食べられない貴重品。
ついでながら、この写真は2004年に始めてスウェーデンに来た時に、 ストックホルム近郊のシグチューナというバイキングの遺跡がたくさん残っている小さな町で写したもの。小さな美術館のりんご祭りの写真です。 実にたくさんのりんごが飾られていました。また、何にでも、赤い実のジャムをかけて食べるのがスコーネ流。 リンゴンとよばれているコケモモの1種です。ケーキにも、肉料理にも、自家製のリンゴンジャムが、 スウェーデンの人々の郷愁を誘うソールフード。
牛乳も種類が多く、写真の牛乳は3%と書かれたものですが、40%というのもあります。 パックが小さいのは、学生寮の、共同で使う冷蔵庫に大きな牛乳パックを入れておいたら、誰かに飲まれたらしく、 持ち上げたら軽くなっていたので、小さいのに切り替えたのです。ついでに卵の6個入りをおいておいたら、2個なくなっていました。ちょっと、 感じが悪いできごと。
2006年02月17日 07:38 | 投稿者: rumi | コメント (0)
エスロブは教育に特化する町
2月13日(月曜日)
今日も緊張する日となりました。
エスロブ自治体の行政のトップへのインタビューがあるからです。
上の写真は昨年の4月に初めてエスロブに来た時に撮った写真。この日、私以外にも服部尚さんという、
大分県にある「太陽の家」という障害者の施設で働いている男性が来ていて、2人で市庁舎訪ねたので、
日の丸がエントランスに掲げられたのです。クリスチーナさんが気を効かせてくれたのでしょう。4月の晴れた日の写真です。
この写真は、現在の2月の写真。市庁舎に向かう時に写したルーテル教会の写真です。 乳白色の霧が立ち込めていました。10時という約束の時間より早く市庁舎に着いて、1階ホールのベンチに腰掛けていると、 クリスティーナさんが2階から降りて来てくれました。同時に、ホールの脇のレストランから、 朝のコーヒーブレイクをしていたらしい黒のタートルのセーターを着た感じのいい男性が出てきて、私に握手を求めました。それがエジ・ リングボーンさんです。
エジさんは2000人のエスロブ市職員のトップです。 人数が多いのはケア部門で働く介護者などもこの数字に含まれているから。シシリア・リンド市長は政治家のトップ。エジ・ リングボーンさんは行政のトップ。彼の仕事は、政治家の作った4年間のプランを実現する仕事。スウェーデンでは、「行政と政治」 の役割分担が明快です。
「将来に向けた、あなたの教育、福祉、住宅問題の展望は何ですか」という質問対し、 「展望を語るのは政治家の仕事。私は政治家の立てたプランを形にしていくのです。私が答えられる質問ではありません」 という答えが返ってきました。スウェーデンでは、4年に1度の国と県と市の選挙の前に、政党が政策を発表。選挙民は政策で政党を選びます。 比例代表制です。選挙が終わると、それから4年間は、その政策に沿って行政が運営されます。日本の場合はどうでしょう。 政策で投票をしているかと聞かれたら、私は「はい」とは答えられません。そういえば、市庁舎には野党であるブルジョワ保守政党の 「もう一つの執行部」の部屋がありました。
エジさんは、シシリアリンド市長に比べ実務家という印象。 彼は1974年に学校の先生としてのスタートを切りました。その後、船乗りになり世界を旅して回ります。東京にも来ているそうです。 スウェーデンに帰ってからは、大学で法律を学びなおします。エスロブの隣の町、古都ルンドで「教師を育てる学校の先生」 をして7年間しましたが、その後の大半はエスロブで過ごしたそうです。市の職員としては文化部を担当して長く、 難民の関係の仕事も長くしています。その後、「アッパー・セカンダリースクール」という専門学校を統括する責任者となります。 中学を16歳で卒業してから行く学校です。また、スウェーデンでは大人の再教育の場も開けています。 それは同時に外国人や難民がスウェーデン語を学び、職を得る職業訓練の学校でもあります。アッパーセカンダリースクールは、 市が責任をもち運営しているのです。
エジさんはこの地位に着いてほやほや。1ヵ月もたっていないという話です。 土地に余裕のあるエスロブは、EU諸国へのアクセスがよく大きな工場がここを生産の拠点にしていましたが、 最近では人件費の安いポーランドに工場が移ることが多いそうです。これから、エスロブは文化と教育に特化していくそうです。 教育肌のエジさんがこのポジションについた訳が理解できます。学校もこれから新設するのではなく、 現在の教育資源を伸ばしていくという話です。エスログは学校が多い町です。専門学校については後日レポートします。 「休日にはお父様の家を訪ねて、アコーデオンを弾くのです」と語った時、エジさんの落ち着いた表情が楽しそうな素顔になりました。
2006年02月17日 06:30 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ヴィンセントのおばあちゃん Vincent’s gland mother
2月12日(日曜日)
昼12時、ヴィンセント君とお父さんのウルフさんとお母さんのカメラさんがまた車で迎えに来てくれました。今日はエスロブから車で30分の、
マルモ近郊のカメラさんのお母さんのウニさんの家に連れて行ってくれるのです。ウニさんのご主人のペールさんは牧師。二人は、
6000平米の土地に106年前に建てられた牧師館に21年前から住んでいます。この村には家が5軒しかありません。
居間の窓から教会と雪のスコーネの平原が見えます。ヴィンセント君は赤ちゃんの時ここで洗礼を受けたそうです。
とはいえ、ドイツなどに比べ、スウェーデンの人々はあまり宗教的に熱心ではないという印象があります。 スウェーデンの王様の中の王様といわれるグスタフ・ヴァーサ(1496年~1560年) はスウェーデンをデンマークから開放独立するとともに、国の宗教をローマンカトリックから分離して、プロテスタント・ ルーテル派の新教国として改宗独立しました。窓の外に見える教会は12世紀の教会なので、最初はカトリックの教会だったのです。 スコーネの広大な平原にはこのサイズの教会や200あまりのお城が点在しています。館という感じの小規模なものですが、 デンマークとの戦争の中で要塞として建てられたものです。ペールさんはお母さんのカメラさんのステップファーザー。ペールさんの祖先は、 風雲児と呼ばれた武人のカールヨハン12世(1682年~1718年)の重鎮であったことが、この家に飾ってある絵でわかりました。
廊下にはこんな絵も。お説教をするペールさんと、オペラ歌手だったウニさんが賛美歌を歌っている写真。 友人が描いたユーモアな絵です。ウニさんは歌うような声の持ち主。 私が感心したのはこの大きな家を誰の手も借りずにウニさんがハウスキーピングしていることです。掃除が行き届いていて清潔。 センスのいい暮らし方だと思いました。食糧貯蔵庫や地下の洗濯室も見せてもらいました。 小さな洗濯屋さんといえるぐらいの機械が完備していて、ワイシャツもシーツもすべて自宅でアイロンかけまでするのだそうです。下の写真は、 椅子のカバーを縫う部屋の写真です。「安い椅子を買ってきて、自分で好きなカバーに替えるのよ」と教えてくれました。
この日、私はお昼をご馳走になりました。「スウェーデンの典型的なお昼よ」と出してくれたのは、 賽の目に切ったジャガイモとソーセージをオーブンで焼いたもの。それに目玉焼きとハーブバターが滲んだフランスパン。 こちらのジャガイモはおいしい。ケチャップをかけて食べました。「卵はアップサイドダウンとアップサイドとどちらがいい」 とカメラさんから聞かれ、意味がわからなかったのですが、両面焼きがいいかと聞かれたのでした。こちらの人は半熟卵が苦手なのでしょう。
私のカメラさんをおばあちゃんの家に置いて、 お父さんのウルフさんとヴィンセント君はマルモにヴィンセント君の拳法の進級テストを受けに行っていました。お父さんは、 次男のルードヴィッヒ君の柔道や末娘のフィリッパちゃんのフットボールの時も、いつも、子供たちを車で送り迎えしています。 子供たちはお父さんをとても尊敬しているのです。もちろん、お母さんのカメラさんも大好きです。この日、 ヴィンセント君は星を一つ取ったと行っておばあちゃんの家に帰ってきました。お父さんとヴィンセント君がお昼を食べ終わると、 おばあちゃんのピアノでヴィンセント君がピアノを弾いてくれました。これが上手。 ウニさんはお父さんに自分の友人をピアノの先生として紹介したいという提案をしていました。
2006年02月15日 07:26 | 投稿者: rumi | コメント (0)
チキンのマスタードクリームがおいしかった
2月10日(金曜日)続き
馬車小屋の店で少し買い物をした後は、ヴィンセント君の家で夕食をごちそうになりました。 スウェーデンのママは働いているので手をかけた料理をすることが少ないようですが、カメラさんはお料理上手。 今日のメニューはチキンのクリームマスタード。鶏のもも肉が2キログラム。それに写真の大きさのフレッシュクリームが5パック。 フレンチマスタードとブイヨンにさらに料理用の生クリーム(グリーンのパック)を2パック。
最初にチキンにマヨネーズ?をかけてオーブン220度で20分焼きます。これを耐熱皿に移して、 生クリームをミックスしたソースをかけてまたオーブンで焼きます。出来上がりが3つ目の写真。この日、 末っ子のフィリッパちゃんの幼稚園時代からの幼友達が泊りがけで遊びに来ていました。この2人、何を見てもおかしくてしかたがないようで、 台所で二人で食べながら、絶えずくすくすという笑い声が聞こえます。スウェーデンでは子供同士がこのように他所の家に泊まり、 他の家を知ることを奨励しているという話です。
デザートはレモンのババロア。生クリームたっぷりとアイスクリームにレモン汁。 甘さは抑え気味でっても上品な味。デザートまで作るのだから忙しいカメラさんは偉い。 クリスマスの時には大きなジンジャーの家も作っています。ところで、この日、 私の服装はアンダーシャツに木綿のトックリのシャツに毛糸のセーター。しかし、PERSSON家の皆さんは、家の中では半そでTシャツ1枚。 ヴァイキングの末裔の彼らの体感温度は違うのですね。私は日本では年の割りに薄着の方なのだけれど。今日も、 学生寮の学生さんは日中ノースリーブで日光浴をしていました。
2006年02月12日 08:17 | 投稿者: rumi | コメント (0)
馬車小屋を改装した郊外の店
2月10日(金曜日)
今日は朝からシシリア・シンド市長のインタビューのテープ起こしをしていました。午後4時に、ヴィンセント君のママのカメラ・
プレソンさんがパパのウルフさんとヴィンセント君の3人で学生寮まで来てくれ、「面白い店があるから行かない」と誘ってくれました。
カメラさんとは英語で話すのですが、彼女と話していると、日本語を喋っている錯覚にとらわれるほど、心が通じ合っている気がします。
金曜日の午後はリラックスする時間です。連れて行ってくれたのは、
旧市街にある学生寮から20分も車を走らせFlyingeエリンゲというところ。スコーネにはお城が多いのですが、
ここにも美しい古城と王様の教会があります。1835年に建てられた王様の馬車小屋を5年前に買い取り、
改装して鄙びてしゃれたガーデニングとインテリアの趣味の店になっています。
店の名はVasrta Stroo 39。住所が店の名前になっています。 aとoの頭には点が2つつきます。何て読むのか、カメラさんに聞きなおそう。
オーナーのレイナ・ゲネバックさんが自分の趣味で集めたり、自分で作ったものを店に出しています。 「この店は長靴下のピッピが欲しい物を集めた店よ」とレイナさんはギフトの包装をしながら、語りました。長靴下のピッピの作者のリンド・ グレーンはスモーランドの生まれだけれど、彼女のセンスはスコーネの人も大好きなようです。シンボルマークはトンボ。 「秋になるとトンボが肩にとまるでしょ」。店にあるものは、どれも素朴だけれど、センスがいい。 私は木綿の布で作ったウサギが可愛いと思いました。
2006年02月12日 07:42 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ミュージックセラピーの勉強会
エスロブ市のカルチャセクション(文化促進部)主催の「ミュージックセラピー」の勉強会があると、 クリスティーナさんに誘われて、星名麻衣子さんと出かけました。場所はBerga(バリア)という地域にあるアッパー・ セカンダリースクール(専門高校)の階段教室です。学生寮のある旧市街と鉄道線路をはさんだ反対側まで、 霙の降る中を麻衣子さんと20分ほど歩きました。クリスティーナさんの案内で遅れて教室に入ると、入り口に座っていたのが、 マルガリータさんというこの学校の校長。よく見ると、去年、顔見知りになった介護職の皆さんがたくさん参加しています。入場無料。
講師はビルギッタ・アンダーソンさんという日本にも来たことのある音楽療法士。 お茶の時間の20分をはさんで、2時間30分あまりの講義です。いや、講義というより、その語り口はエンタティなーそのもの。 舞台を見ているようでした。内容はクリスティーナさんが小声で同時に英訳してくれるのをメモに取ったのですが、理解できたのは半分以下。 しかし、肝心な点はつかめたのではないかと思います。とにかく、ある高齢の男性は・・とか、あるレディは・・、 というように実例が盛りだくさん。私がつかんだことは、1つは、高齢者にとって、音楽は深いインナーフィーリングに触れるものである。 2つ目は音楽療法には認知症の人々への深い理解から始まるということ。たとえば、グループホームでの無言の朝食のテーブルを変えるのが歌。 高齢者は朝のテレビのニュースなんて見ませんよ。それよりも、若いころに聞いた歌をう一緒に歌ったらどう。歌が鍵になり、 記憶の扉をあけるんです。
圧巻は、ビルギッタさんが94歳の男性と歌っている録音テープ。 スウェーデンの古いプロポーズの民謡です。「ねえ、私に指輪を買ってくれる♪~」「~ああ、もちろん、いいよ、もちろんだよ♪」 というような会話のようなやり取りです。彼はセクシャルな会話をよくしたので、歌でこれを受け止めたそうです。翌朝になると、 彼は昨日のことを忘れて同じ歌を繰り返しました。そして、数週間後、彼はブリギッタさんの手を握り、この歌を口ずさみながら、 亡くなっていったそうです。そう、音楽療法はターミナルケアに深く関係しているのですね。
それを教えてもらったには、日本の音楽療法士の曽根恵美子さん。 彼女は日本の死生学の大家上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン神父さまの「生と死を考える会」の会員でもあります。 実は、私たちのホスピタリティ★プラネットという温かなケアの勉強会では1月26日に、 曽根恵美子さんの講演会をしました。もう、 20年もこの仕事をしていらっしゃる曽根さんはビルギッタさんと同じように現場での数々の深い経験を重ねています。 高齢者の方々とのエピソードも心を打つものでした。 曽根さんはあるディケアの音楽療法を通して知り合った高齢な女性が死に向かう病院のベッドに何度も通いました。そして、たとえば、 そのご婦人が女学校時代を過ごした函館を偲びながら、「雪の降る町よ~」などの歌を静かにハミングしたそうです。 明治学院大学の南ゆう子さんがこの会のテープお越しが完了したというメールを今朝くださいました。エスロブ出発前に聞いたいいお話でした。 ちょっと長いブログでした。
2006年02月10日 07:53 | 投稿者: rumi | コメント (1)
カリダールのTHINK TALK WALK
2月8日(水)続き
1時になると、レストランの入り口のテーブルでポーカーらしきカードを始めるご婦人たちがいました。
平均年齢はたぶん、80歳に近いでしょう。先ほどまでテーブルで静かにお昼を食べていた車椅子のご婦人もこの中にいます。
5人のグループです。一人の方が点数をノートにつけ、誰もの表情は真剣そのもの。また、壁をはさんで、男性たちがビリヤードを始めました。
ビリヤードはある世代の男性たちにとってたまらなく面白いゲームのようです。また、昨年秋の改装で新しくできたダイニングキッチンでは、
手芸のグループが小さなタピスリーを織っています。私が一人で遅いお昼を食べていたら、このカリダールでフルタイムで働いているアグネッタ・
ノーランドさんがコーヒー茶碗を片手に私の隣に座りました。「私はいい雰囲気を作り出すお手伝いだけ。すべて、
皆さんが自分たちで小さなグループを作って運営しているの」。「1970年に私が仕事を20歳で介護職として働き始めた時には、
私たちは高齢者の方に『これをしてください』とやることをこちらで決めたものです」。「大切なことは、皆さんが自分で考えて選び、
仲間と語らい、町を歩くこと」。アグネッタさんの熱い思いが私に伝わってきます。
突然ですが、私はまったく同じような光景を今は町名が変わった秋田県鷹巣町の、町の真ん中にある「元気ワールド」で見ました。
鷹巣町の岩川徹元町長が作り出した民主主義を軸とした高齢者福祉の姿には、希望が広がったものです。なぜ、鷹巣市民は、
自らの手でその可能性に封印をしたのでしょう。岩川元町長が反対派の工作で町長選に落ちた時は、この耳を疑いました。
元気ワールドを運営していた皆さんはどうしているでしょう。
2006年02月09日 03:33 | 投稿者: rumi | コメント (1)
カリダールという高齢者の集会場のレストラン
2月8日(水曜日)続き
今日は、ベチヤベチャの道を歩いて、カリダールという高齢者や介護を担う家族が集まる集会場に行きました。去年、
エスロブを発つ時に改装をしていたので、様子を見に行ったのです。もちろん、仲良しになった、ここで働くアグネッタさんやアンブリッドさん、
ここに来ているはずのシーマさんに会えるという算段がありました。写真のかわいい子どもたちは、幼稚園から、
カリダールのレストランにお昼のために来たようです。シーマさんと私が話していると、興味深げに集まってきたのです。ここのレストランには、
ハンディキャップの人たちも、近所の作業場からお昼にきます。
改装されたレストランには16の四角い6人がけのテーブルに、 トランプをする2つの丸テーブルがあります。下の写真はここの常連たち。黒いポロシャツに白いパンツののスティングさんは、 隣接したサービスアパートに奥様が亡くなられた2000年から住んでいて、毎日、ここに食事に来ます。おかしいのは、男性は男性で固まり、 女性は女性のグループができていること。カップルで来ている方もいます。1時少し前になると三々五々自宅に帰ったり、 玉突きやカードなどのゲームを始めるために、人が減っていきます。ここまで歩いて来るのが大変な方には、時間になると、 送り迎えだけの介護者が現れます。みなさん、自分の歩行補助器具を使い、玄関に待つ送迎のタクシーまで歩いていきます。
2006年02月09日 01:48 | 投稿者: rumi | コメント (0)
雪の日のブーツ
2月8日(水曜日)
こちらのお天気は雪と晴れ間を繰り返しています。到着した数日は抜けるように透明な青空から凍えるような空気が降りてきていました。
道路は乾いて完璧な除雪と感心していました。問題は月曜日、朝、窓をあけたら、道路は真っ白。すごい雪です。
介護を担うアンダーナースの専門高等学校の先生に会いに、約30分、漂白した小麦粉をまき散らすように降る雪の中を歩いたのが、このブーツ。
日本製です。実はこのブーツ江尻菊子さんのブーツです。日本を発つ数日前、「雪靴を買いに行く時間がないの」と喋った私に、
母校の集まりでお会いした江尻菊子さんは「このブーツはどう」とその場で推薦してくれ、神奈川県藤沢市の靴屋さんに探しに行ってくれました。
結局、同じものがなく、自分のを私に宅急便で即日送ってくれました。驚くほどの優れもの。雪の中を30分歩いても表面が乾いているし、
雪解けのビチョビチョの道を歩いても、平気のへの字。足の裏に菊子さんのぬくもりを感じながら、エスロブの道を闊歩しています。
2006年02月09日 00:40 | 投稿者: rumi | コメント (0)
シシリア・リンド市長にインタビュー
2月7日(火曜日)
昨日の月曜日から仕事が始まっています。昨日はアンダーナースという医学の勉強をした介護者の専門高校の先生に会い、情報を集めました。
今日は市長のシシリア・リンドさんのインタビュー。私の受け入れ先であるクリスティナ・
ウォーミングさんがスウェーデン語を英語訳する通訳をかねて立ち会ってくださいました。リンド市長は英語がもちろん上手ですが、
クリスティナさんのおかげで、とてもスムーズなインタビューとなりました。
私が立てたスケジュールで、クリスティナさんがアポイントを入れてくださり、現地でのスケジュールが決まるのですが、
最初から市長インタビューが入り緊張しました。土、日は、インタビューシートの準備に明け暮れました。
事前に市長に目を通していただくという手順を踏みました。
昨年の10月末に帰国、3ヶ月間、スウェーデン語の資料を、スウェーデン福祉研究所のヨアキム・カウトさんの手を借りて訳しました。
この作業を通じて、書きたいテーマが絞られたのですが、今日のインタビューで、テーマの方向性が違っていないという意を強くしました。
少女時代からリーダーシップを発揮していたというリンド市長のスタートは看護師です。
1989年からエスロブの高齢者ケアの責任者となります。同時にその仕事を続けながら、1991年から政治の活動を始めました。
5年前に前市長のリタイアに伴い、社民党(ソーシャルデモクラティック)
のパーティの選挙で市長になりました。彼女のライフワークはソーシャルワーク。一緒に働きながら、社会を改善していくことです。
本物の大人に成長するとは彼女のことを表していると言っても過言ではありません。温かく、
心が座っているという表現がふさわしい魅力を存分に感じました。今年9月、スウェーデンは4年に1度の総選挙があります。もちろん市長改選もあります。
エスロブは地理学的にもEU諸国に近く、今、経済的にもよいバランスが取れています。いい企業も集まり、美しい自然も残っています。
そんなエスロブを一言でいうと、コンプレックスシティだそうです。それは64の言葉が話されている多国籍な町という意味です。
2006年02月08日 08:21 | 投稿者: rumi | コメント (0)
リー君の誕生パーティ
2月5日(日曜日)
今日はヴィンセント君の弟のルードヴィヒ(リー)君のお誕生パーティによばれました。
3ヶ月ぶりの訪問です。メールでヴィンセント君が「パーティといっても簡単なティーパーティです」と書いてきたように、
2人組のおじいちゃんとおばあちゃんに、彼の家族5人とブルドックのスカイプが揃うというものです。
父方のおばあちゃんが焼いた実においしいメレンゲパイにナイフを入れようとするリー君。無口だけれど、絵の才能がある彼を
を囲んで、3世代の家族の楽しい会話がご馳走。私はとても幸せな気持ちになりました。
驚いたのは、たった3ヶ月の間に、3人の兄妹の背が伸びたことです。何とヴィンセント君は3センチも伸びたそうです。
去年の9月に一緒にストックホルムに行った時は、まだ、ういういしい少年でしたが、今回は、青年という雰囲気が加わり
ました。みんな第2外国語の勉強を始めて、一番下のフィリッパちゃんとリー君はフランス語。ヴィンセント君はドイツ語。
この年代の子供の成長ってすごいのですね。
2006年02月08日 06:46 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ふたたび、雪のエスロブに
2月2日(木曜日) 雪のエスロブ駅に降り立ちました。
午後6時前、コペンハーゲンの空港から汽車で1時間あまり、エスロブの駅に着きました。
3度目のエスロブは雪景色。クリスティーナさんと、エスロブでのもう一人の日本人、星名麻衣子さんが駅に迎えに来てくれていて、
スウェーデン流にハグをして再会を喜びました。夫を一人残していることに後ろ髪を引かれる思いがしながら、こうしてまた来ることができて、
心が弾みました。
クリスティーナさんは6時から会議の議長役を務めるのに、私を迎えに来てくれたのです。
大急ぎで駅から車で5分の左の写真の学生寮に送ってくれました。日本を発つ前の数日はとても忙しくて睡眠時間が足りなく、また、
機中でも寝なかったので、頭がふらふらしているにもかかわらず、麻衣ちゃんとタイ料理の店に行き、つもる話をしました。
彼女はケアの勉強をしながら、外国人のための、学費がかからないスウェーデン語の学校にも行っていますが、
この3ヶ月でなかなか進歩したようです。
2月3日(金曜日)
学生寮の部屋の広さは15畳ぐらい。この日は一日かけて部屋の環境を整えました。去年の夏と同じ部屋でした。
去年も考えたのですが、今回の滞在は6週間と短くても、仮住まいという気持ちではなく、QOL(クオリティ・オブ・
ライフ)を高めたいと思いました。と言っても花を買うぐらいのことですが。今回は写真の椅子が加わりました。この日、
クリスティーナさんの家で歓迎の夕食によばれましたが、その時に、食事をする時の椅子を探したいと言うと、納屋から、
アンティークのこの愛らしい椅子を出してきて、貸してくれました。灰色のカーペットとよくマッチしています。
白いレースのベッドカバーはJYSKという店で約2000円。花瓶はなんと500円。チューリップも500円。
麻衣ちゃんが蘭の鉢をプレゼントしてくれ、窓際に観葉植物の植木鉢を2つ置くと、寒々しい感じがしません。この部屋で、これから、
しこしこと、エスロブの高齢者ケアと社会の姿を書く仕事をします。
2006年02月08日 05:03 | 投稿者: rumi | コメント (4)
スタファンさん
9月30日(日)
理学療法士であるスタファンさんの仕事と家庭を通して、スウェーデンの人々の時間の
使い方を少しご紹介したいと思います。まだ、私の短い滞在ではしっかりしたご報告がまだできませんが・・。
スタファンさんはルンド大学で理学療法士としての学位を取りました。
現在はエスロブ市のリハビリ部門とショートタイムケア部門のユニットマネージャー(部長職)として多岐に渡る仕事をしています。
1、ショートタイムリハビリ施設(短期滞在のリハビリテーション)の責任者
2、リハビリテーション(訪問リハビリ、リハビリ)の統括
3、年間23000件の利用があるホームアラーム(緊急通報)の管理責任者
4、「オンタンケン」という家族救済の家の責任者
5、「カリダール」というアクティビティハウスの責任者(ここが素晴らしい!)
6、家族に対しての認知症の情報提供、フットケア(こちらは足の病気の人が多い)等彼の仕事に関してはインタビューをしているので、
追ってご報告をします。
彼は理学療法士というスペシャリストでありながら、マネジメントもできるジェネラリストでもあります。 初めて彼に会った時に、声の発声のトーンと、相手に尊敬の気持ちをこめて接する態度(しぐさ)を大変魅力的に感じました。 そんな忙しい彼ですが、4時になると家に帰ります。また、夕食は5時ごろだそうです。
彼はスーというマレーシア出身のパートナーと二人で暮しています。 星名麻衣子さんと彼の家に呼ばれた時の写真です。スーは表情がいきいきとチャーミングでありながら、 ルンド大学で経済の学位を取る勉強をしている才媛でもあります。 この日のメニューはスーの作ったマレーシャの中国料理とスタファンが時間をかけて作ったスウェーデンを代表する肉団子料理でした。 彼は料理もよく作るそうです。。「毎日、そんなに早く家に帰り、時間をもてあまさないか?」という私の質問に彼は、今、 理学療法士としての技術開発することが多く、勉強することがいっぱいあると答えました。日曜は必ず二人で彼のお母さんの家に行き、 庭仕事を手伝い、友人との食事を楽しみます。
2005年10月25日 18:07 | 投稿者: rumi | コメント (1)
スゥーヘランで働く人々
9月29日(木)
「マルガリータはこの道で40年」
と紹介されたチームリーダーのマルガリータさんはまさに現場で鍛え上げられたプロの介護者。
1948年生まれで私より1歳年下です。エスロブの隣町のルンドという京都のようなゆかしい町の精神障害者の施設で4年、
その後、トーベルンドというエスロブのナーシングホーム(介護施設)で31年間働き、
スゥーヘランの2000年の立ち上げに参加しました。アンダーナースの資格を取ったのは42歳の時です。
通訳を頼んだのはルンド大学の大学生のアンドレアス君。 彼はここで75% の勤務をしています。彼が「マルガリータはお母さんのような存在」「スウェーデン人はアイ(私) を優先させて行動する。 日本人はウィ(皆)を大切にする。マルガリータは日本人のような人なんだ」と語りました。彼女は、 この日、 私のインタビューにあわせて、「ハウスモダン」という「主婦の友」のような1930年代の雑誌を何冊も持ってきてくれました。たぶん、 彼女のコレクションの一部だと思いますが、雑誌の話をゆっくり聞く時間が取れないままにインタビューが終わったのが心残りです。
たくさんのお年寄りの死に合ってきた彼女に 「死についてどう思いますか」と聞くと、「死は怖くない。 亡くなった人たちは今も私の心で生きているから」 と淡々と答えてくれました。「ストレスはどのように解消しているのですか」 という質問には 「ここに住んでいる人たちと喋ること」という答えがきっぱりと返ってきた時には、介護の仕事は彼女自身なのだと感じました。
2005年10月19日 04:46 | 投稿者: rumi | コメント (1)
お年寄りの温かさに触れる
9月26日(月)続き
スゥーヘランのサービスハウスでは介護者の方もさることながら、私はお年寄り
(どうお呼びしたらいいのかと迷います)の温かなもてなしが何とも印象的でした。
写真は出窓が廊下に向けて作られている台所に座る84歳のBさんと、21歳の元気なアンダーダーナースのアニカさん、
それにマケドニアから来た明るいフレイヤさんです。Bさんとは、
スウェーデン語が話せない私にとって心が通じ合った瞬間を何度も感じた方でした。
Bさんはお弁当を持参しなかったた私に、「ご飯は済んだの」「コーヒーを飲んだら」と聞き返し、夫の八鳥治久のデザイン集をお見せすると、
「ミッケ フェイント・とてもきれいよ」と何度も賞賛の言葉を繰り返してくれました。Bさんがその生涯をどう生きてきたのかは、
溢れんばかりの思いやりが表情になっているお顔が物語っています。
Bさんは美容関係の小さな会社を経営していた方だと知りました。ご主人と一緒にここに住み始め、今は一人になりました。
スゥーヘランは部屋も大きいので、夫婦で住んでる方も多く、22フラットのうち、夫婦は8カップルもありました。
どの部屋も使い慣れた家具が持ち込まれ、絵やタピスリーが壁を飾っています。
特に本棚を飾る家族の写真はその一生をかいま見る思いがします。両親の写真、子供の頃の家族の写真、自分の結婚式の写真、夫の写真、
子供の小さい時の写真に孫の写真。家族が多いほど写真のコーナーがにぎやかになります。サービス・ハウスは高齢になり、障害を持ち、
人の手を借りて生きる時、その生涯を振り返る場所だと思いました。部屋に入れていただき、
明るい採光と外の世界を部屋に取り込む窓の役割を考え直しました。
2005年10月19日 03:34 | 投稿者: rumi | コメント (0)
スゥーヘラン、太陽の斜面の家
9月26日
2000年にリニューアルされたサービスハウス、Solhallan(スゥーヘラン)のご紹介をします。
「Sol」は太陽。
Hallanは平らな岩板という意味で,ポプラの大木が風に揺れる日当たりのいいなだらなか斜面を存分に利用したサービスハウスです。
写真は8月の終わりに2日間滞在した時に撮ったもの。1ヵ月後の9月末に3日間8時間ずつ滞在しました。
全体で71軒の個室があり、 それが二つの部分に分かれています。私が行ったのは「春の玉葱」という不思議な名前のついた方の棟の建物。 1階から3階まで3つに分かれています。この建築がとても素晴らしかったです。玄関を入ると吹き抜けになっていて、 目の前に噴水の水がちょろちょろと流れる蓮の花が浮かぶ池があります。
スゥーヘランはエスロブのサービスハウスの中でもいちばん新しいだけに、脱施設化という意味ではより徹底しています。 それぞれの部屋(アパート?)に付く台所にはダイニングテーブルが置いてあり、何より素敵なのは、コリドー(廊下) に向けて窓があることです。それが、劇中劇のようで、私にはとても面白いと感じました。各部屋も明るく広く、素晴らしいものでした。
2005年10月17日 21:53 | 投稿者: rumi | コメント (0)
成熟した大人のカップル
9月17日(土)
少し時間が後ろに戻りますが、このブ
ログ最初のページに登場するのが、
クリスティーナ・ウォーミングさんの家
の庭です。古い農家を自らの手で改
造し、石ころだらけの1ヘクタールの
農地をガーデニングして、彼女と夫の
ヴァントさんは成熟した大人同士の新
生活を8年前にスタートさせました。
ヴァントさんは66歳。元スカンナビ
ア航空の名パイロットです。18歳で
スウェーデン空軍のジェットパイロット
試験に合格したことで、昔、新聞に載
り、一躍、故郷のスモーランドで人気
者になりました。クリスティーナさんは、
エスロブのケア部門の開発担当オフ
ィサーです。私と写真の星名麻衣子
さんの世話役でもあります。
退職後の有り余る時間をどのように充
実させるかと考えた時、彼らのように
広い庭を持てませんが、少年時代の自
然と接する生活を再び手にし、クリエィ
ティブなガーデニングにこつこつと励む
ヴァントさんを見ているとこうありたいと
いう思いにかられます。素朴さと洗練
が同居したこの庭は彼の人生が作り
上げたものでしょう。癒されるのです。
このテーブルを鉄線の花で覆いたい
と思いにふけるヴァントさんです。
2005年10月03日 06:13 | 投稿者: rumi | コメント (2)
ゲルマン民族についてヘルシンキで考える
9月20日(火)
昨日からヘルシンキに来ています。デザインを見たいという夫の実質8日間の滞在の4日間を過ごしました。
観光客としての滞在ですが、ヘルシンキは私にとってもスウェーデンを考えるいい対象となります。フィンランドの介護事情はわかりませんが、
私はこの1ヶ月間の取材で、スウェーデンの人々にゲルマン民族の知性を感じてきました。
繊細で情緒的な日本人の情の介護との違いを肌で感じてきました。
スウェーデンの言語はインド・ヨーロッパ語圏に入りますが、フィンランドの言語はウラル・
アルタイ語に属します。街を歩いていて人々の会話が耳に聞こえると、一瞬、ロシア語を聞いているような不思議な気持ちになります。スウェーデンの統治下で600年、
ロシアの統治下で100年というこの国の人々はどんな思いで暮してきたのでしょう。シベリウスの「フィランディア」
を作曲した時の思いと、この国の現在の発展を考えながら、街を散策しました。
街の風景もストックホルムとどこか違います。道幅が狭く、石畳を歩いていると、パリの裏通りを歩いているような錯覚を受けました。
ストックホルムにもガムラスタンという旧市街がありますが、肌合いが違う風景なのです。それに、気のせいでしょうが、メランコリックな沈静した風景なのです。短い旅の印象で簡単に判断するのは避けなければなりませんが。
ヘルシンキの中央駅を歩いていたら、「あっ!」と声をあげてしまいました。
写真は私が働いていた会社の後輩の菅野直子さんです。ご主人がノキアで仕事をしていて、1年前からこちらに住んでいるとのこと。
今はフィンランドの友人の特許事務所の雑用(本人曰く)係として働いています。昔から北欧への関心が高かったこともあり、現在、
北欧の雑貨の本を書く仕事も依頼されたそうです。私が33年間働いた愛する会社の後輩がガンバッテ新しい人生を歩み始めたことが、
何とも嬉しかったです。何という偶然でしょう。
2005年10月02日 19:56 | 投稿者: rumi | コメント (1)
スウェーデンのインテリア
9月15日(木)
エスロブでの生活がようやく1ヵ月になろうというある日のことです。
私は部屋のインテリアを突然変えようと思いつきました。
この日までに6箇所のサービスハウス(ケア付住宅)や認知症の方のグループホーム、療養を伴うナーシングホーム。
それに2地域の在宅ケアサービス。数人のインタビューを終えた所です。正直、部屋のことなど考える余裕はありませんでした。
私はこの部屋で充分満足をしていました。
インテリア替えのきっかけはエスロブでお会いしたもう一人の日本人である浩江・ グンナソンさんのひと言です。彼女に私はインタビューの通訳を頼みました。私の部屋に訪れた浩江さんの正直なひと言。 「なんだか寒々しい部屋ね」でした。そのひと言は、私にスウェーデンのインテリアについて考えるきっかけを作りました。 実は仮住まいだから、あるもので間に合わせようと割り切っていたのです。14,5畳の部屋はたしかにこれで冬を迎えたら、 淋しいかもしれないと思わせるものがありました。それに、 今日は夫の八鳥治久が10日間ほど様子を見にこちらに来る日でもあります。 そこで駅前の雑貨屋さんと花屋さんに出かけることにしました。
ちなみに、浩江さんのご主人はアジア(特にインドパキスタン)
を専門とするスウェーデン人のジャーナリスト。
彼女自身はスウェーデン放送教会の日本支局員という肩書きで日本とスウェーデンを行き来している方です。また、
彼女は現在スウェーデンのアンティークのタピストリーや食器などを
日本で販売する仕事もしています。浩江さんのホームページ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~hokuou/
さて、私の部屋は手を加えることで過ごしやすくなりました。 写真では見えにくいかもしれませんが、窓際に小さなランプを2つ。植木を2つ。ベッドの上にオレンジ色とベージュのひざ掛け。 それにセカンドハンドショップ(不要のものの再販の店)で赤いじゅうたんと机をただのような値段で買いました。こちらはこうしたものが安く、 全部で18000円。散財だったけれど気持ちが変わりました。
このインテリア替えで私は2つのことを思いました。
①残り少ないいのちの質(短い滞在)でもそれを豊かに過ごす工夫がホスピスの思想だったこと。
②スウェーデンの人は荒涼とした暗い冬を温かなインテリアでしのいできたのだ。
これをきっかけに、そして、浩江さんからのレクチャーもあり、私は北欧の手工芸やインテリアに興味を広げることができました。もともと、
北欧の食器は私が働いていた店(銀座和光)で1960年代後半から販売を始めたものでもあります。
コラージュを作りました。
ワインを専売している店も見つけました。
2005年10月02日 17:37 | 投稿者: rumi | コメント (1)
スコーネの昔の農家を訪ねる
9月18日(日)
10日間の滞在で様子を見に来た夫の八鳥治久と私を、浩江・
グンナソンさんが彼女のご主人の弟さんが住むビリンゲというエスロブ近隣の村に連れて行ってくれました。
写真は浩江さんと義理の弟さんのレナート・グンナソンさんのいる台所です。
ビリンゲへは電車とバスを乗りついで行きました。
浩江さんは1966年にこの家の長男のご主人に嫁ぎました。浩江さんの義理のお母さんはこの家の2階に6台の機織り機を持っていて、
それぞれの機械でじゅうたんや子供たちのオーバーの生地までを織り分けていたそうです。いい写真がなくて残念ですが、
このダイニングキッチンの床には義母さんが織った120センチ幅の長い長い赤いじゅうたんが数本敷いてあります。
ちなみに隣の部屋はグリーンでした。
ビリンゲはまさに「ニルスの不思議な旅」
のスコーネがそのまま残っているような農村です。ちなみに私は在宅サービスの取材でこの村を一度訪れています。
義弟のレナートさんのライフワークが素晴らしいのです。
彼は忙しい農家の仕事の合間をぬって古い農家を自分の手で建て直しています。古い農家の廃材などを使い、
彼が10年がかりで建て替えつつある農家は実に素晴らしく、夏には観光客が訪れるそうです。写真は彼の家の隣にある、
エスロブ市のパンフレットでも紹介されている茅葺屋根の農家です。この建物の一部すでにウィークリーで滞在できるようになっています。
彼は古い家具やインテリア、陶器の人形などを研究収集していすそうです。
この日、レナートさんの豚が10頭の小さな赤ちゃんを産みました。
初めて足を入れた豚小屋です。ちょっと臭いのですが、なんとも可愛い赤ちゃんです。
豚のお母さんはコレステロールが高そう。豚って本当に太っていて大きいのですね。赤ちゃんに近づくと威嚇されて、怖かった。
豚小屋には大中小のおおよそ50匹(赤ちゃんも入れて)がいました。スコーネの人々は家畜小屋と隣りあわせで暮していたそうです。
日本の東北の昔の農家を訪ねたような気分になりました。
2005年10月02日 17:30 | 投稿者: rumi | コメント (0)
もう一人の日本人
9月14日(水)
しばらくブログにとりかかれませんでしたが、この学生寮に寄宿している星名麻衣子さんをご紹介します。
彼女は浦安市が経営する老人ホームの介護職員でした。この老人ホームのソフト運営はあの聖隷三方原ホスピスです。とにかく、今回、
私が会った3人の日本人の1人です。
彼女はこの老人ホームで、身寄りのないお年寄りを他の職員の皆さんと力を合わせて看取ったという経験を通して、パリアティブケア
(終末期の痛みをなくす温かなケア)を極めたくこのエスロブにたどり着きました。今年の6月から滞在して、
前にご紹介したトルホゴーデンというサービスハウスなどで順番に研修を受けています。スウェーデン語の学校にも通い始めました。
ちなみにこの学校はただです。彼女が同じ学生寮にいてくれたことで、どんなに助けられたか知れません。
彼女も私が着いた時は、2ヶ月が経過し、
日本語が話せないというストレスを感じていました。これは少し前の写真ですが、
二人で学生寮の食堂でとんかつとポテトサラダを作って乾杯しているところです。ちなみに、ビールはアルコール濃度3,5%。
のん兵衛の私たちにはちょっと淋しい乾杯です。
2005年10月02日 17:03 | 投稿者: rumi | コメント (1)
トルホゴーデンのグループホームのザリガニパーティ
9月13日(火)
8月の終わりごろから9月にかけてスウェーデンの各地でザリガニパーティが
催されます。
普通はシナップスという強いお酒とザリガニをディルという香草で
ゆでたものが出されます。手で直接ザリガニの足を折り、
肉を取り出し、この時
ばかりはチューチューと音を立てて食べても行儀悪いとは言われないそうです。
この日、
トルホゴーデンのグループホームでもザリガニパーティが開かれました。
参加者は16名のお年寄りと職員の方たち。小さな少年も一人加わりました。
私も招待されたので、テーブルに座りました。料理は、ザリガニの大盛り、ゆで
た小エビや卵にポテトサラダという組み合わせです。お年寄りの皆さんはおめか
しをして、うきうきした感じが伝わってきます。
バンドが雇われいて、なつかしのメロディーの演奏が始まると場が盛り上がり
ます。場所は一階の多目的スペースにも使われる食堂です。音楽に誘われて
1階のサービスハウスに住むお年寄りも2、3人が見物に来ました。
トルホゴーデン全体ではサービスハウスのアパートが55室、グループホーム
のアパートが16室あり、グループホームが2階、3階にある建物の1階がサー
ビスハウスになっているのです。
日本人も生活に四季の彩りを取り入れ、生活に豊かさを出すのが上手ですが、
スウェーデンの人々も厳しい冬に負けないように、春の到来や夏至、夏の終わ
り、冬至やクリスマスなど、キリスト教の伝道が始まる前からの歳時を楽しみま
す。歳時は生活に変化をつけるための昔の人たちの知恵なのでしょう。
2005年09月18日 06:10 | 投稿者: rumi | コメント (2)
ストックホルムの小旅行から帰った日
9月12日の夜
ストックホルムの小旅行から帰ったのは夜の7時、ヴィンセント君のお父さんのウルフさん
がエスロブのとなりの、特急が止まるルンドの駅まで車で迎えに来てくれました。
20分ぐらい車を走らせ彼の家に着きました。この日は学生寮の冷蔵庫の残り物で夕食を
済ませようと思っていた私にお母さんのカメラさんがサプライズディナーを用意してくれました。
写真がないのですが、庭には「お帰りなさい」のろうそくの灯がゆらゆらと揺れていました。
台所のテーブルには家庭的な夕食のテーブルセッティングがしてありました。
「簡単な夕食よ」と出されたのは、天火で焼いたパイのようなキッシュのような一皿とサラダ
です。カメラさんはいつも、美味しい料理を作ってくれます。
写真は寮に帰ってから写したものですが、ブルーの包みの中味が下の人形です。私にと
ヴィンセント君のおばあちゃんが作ったというニルス(ニルスの不思議な旅)
の人形と小さな置物でした。
2枚の絵は弟のルードヴィッヒ君と妹のフィリッパちゃんが描いてくれたもの。左のタッパには、カメラさん
が私に学生寮で食べてと日持ちのする浅漬け風のサラダをおかず分けしてくれたもの。
今回の旅行に対しての感謝をこんな形でしてくれて、私の心も彼の家族のもてなしにすっかり温まりました。
2005年09月18日 04:50 | 投稿者: rumi | コメント (0)
SCI(スウェーデン福祉研究所)のエミールさん{
9月12日(月)
この写真は今年の4月に撮ったものですが、この方がスウェーデン福祉研究所(ケアインステチュート)
のエミールさんです(身長2m)。エミールさんの最初の自己紹介は「私は視覚障害者です」
というものです。うまり、視覚障害が彼にとっては自己の人との違い(アイデンティティ)を示すもの。
私は今回のストックホルム行きでエミールさんにESLOVエスロブでの仕事の進行具合を報告に行きました。
私は彼の優しさとユニークさがとても好きなのでご紹介しますね。
日本語がペラペラの彼は1973年生まれ。7歳で小学校に進学するときに視覚障害者になりました。ちょうど、
スウェーデンで障害を持つ子供たちが普通の小学生と机を並べて勉強する改革が始まった時なので、彼は普通の小学校に進学します。
勉強するのにどんなサポートがあったのですか?と質問すると、ガバメント(市役所)のサポートがあり、
一週間に7時間彼を支援する特別な先生が着いたとのことです。理解のある先生もない先生もいたので、
黒板の字が読めないことなどを助けてくれたそうです。これは彼だけが特殊なのではなく、
勉強が理解できない子供が遅れないように支援する制度でもあるそうです。もちろん、両親の家でのサポートも厚かったと聞きました。
その後、中学、高校(商学部)と順調に進学して、ストレートでストックホルム大学の商学部に進みます。
彼はとても頑張り屋!勉強が大変だったでしょう、という私の質問に彼は「難しくなかったです」と答えました。なぜなら、
この時にはIT機器が発達していたから、音声やパソコンで十分に勉強ができたそうです。その後、
彼はアメリカのオレゴン大学に一年の予定で留学します。広い世界を見てみたかったからだそうです。実際には3年間
の留学になりますが、ここで英語を話せるようになり、いろいろな国の学生とコミュニケーションが取れる楽しみを覚えました。
この時のルームメイトが日本人だったそうです。エミールさんは彼を通して日本に興味を持つようになり、日本語をこの大学で学びます。
この時、オレゴン大学で日本語を教えていた日本人の先生が実に素晴らしかったそうです。
視覚障害を実によく理解してくれた。先生を通して日本に開眼したエミールさんは1997年から1年間早稲田大学で学びます。日本語、文化、
経済を学んだそうです。それまでは、日本は固い、冷たいというイメージを持っていましたが、にぎやかで優しい人々だとわかったそうです。
彼は98年の長野パラリンピックに出ました。日本の大学の学生との合宿が楽しかったと語りました。98年7月にスウェーデンに帰り、
2000年にはシドニーマラソンに、2002年にはソートレークパラリンピックの
クロスカントリーに出場して、5kmでは銅メダル、10kmでは銀メダルを取りました。
現在のスウェーデン・ケア・インスティチュート(SCI)の仕事は2002年から。何と彼が「妻」 と日本語で語る奥様は「かよこさん」という日本の女性です。私も会いましたが、下町生まれのかわいい女性です。
2005年09月15日 19:21 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ストックホルム 男の料理
9月11日(日)
スウェーデン滞在1ヶ月にして、こんな経験をするとは思っていなかったのですが、ヴィンセント君の伯母さん
(おとうさんのお姉さん)のロッタさんの家の夕食に招かれました。たぶん、私が彼をストックホルムに招待したので、
そのお礼という意味があるのだと思います。
ロッタさんの家はリデガーというストックホルム郊外の島にある海に囲まれた美しい町です。なかなか洒落た家でした。
ロッタさんの夫のLarsさん(読めない)は大の料理好き。とにかくこの家の3食は彼が料理するそうです。ロッタさんは洗濯と掃除が担当。
私が招かれた家では男の人がごく普通に皿洗いをしている姿を見かけました。この日もベスカトーレのパスタとサラダ、それにキノコのソテーを実に包丁さばきよく作ってくれました。
50代になりたてのご夫婦ですが、2人のお嬢さんは中国と韓国生まれです。私も子供がないので、
すすめられました。お姉さんがヘレンちゃん、妹がアグネスちゃんという名前でした。スウェーデンに来て印象的だったことは、多様な人種が分け隔てなく住んでいることです。
人口900万人のうちの150万人が移民、難民、
そしてロッタさんの家のような養子です。第2次世界大戦に参戦しなかったために、
廃墟と化した他の欧州の国々の特需で大変な好景気となった60年代のイタリア、
ユーゴスラビアからの移民を受け付けたのが皮切りだそうです。
エスロブの高齢者施設で働く人たちにはチェコ、ボスニア、パレスチナ、タイ、フィリピン、チリ、マケドニアの人たち、もちろん、
スウェーデンの人も一緒に働いています。ヴィンセント君の仲のいい友人はニカラグアの少年で、成績が良く、
将来はお医者さんになるのが夢だそうです。そういえば、今年、4月に来た時に会った、エスロブ市のチーフナースのグニラ・
エミルソンさんは夫がパレスチナ人。精神科医のカメラ・リンドグレンさんは離婚した夫がニカラグアだと言っていました。
私もエスロブに到着したばかりの時に歩いていたら、おばあさんから道を訪ねられました。私の見た限りではエスロブでは「人種の壁」
を感じません。スウェーデンは時間をかけて「壁」を取り除いてきたのでしょう。
こうしてみると、中国や韓国との現在のわが国の軋轢を違う目でみることができそうな気がしてきました。
2005年09月15日 06:00 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ストックホルムのお茶席
サムライデーの隣の民族博物館には瑞暉亭という茶室があり、
メールでご紹介をしたデュークエイコさんというストックホルムに住んで40年という方が、裏千家の茶道の紹介をしていらっしゃいました。
デュークさんは大江健三郎や村上春樹をスウェーデン語に訳して紹介している方です。日本の食文化や俳句(ご主人との共著)
などのスウェーデン語の本を書かれています。
久しぶりにお茶に触れて、日本人は自然を楽しみいとおしんできた民族とつくづくと思いました。しかし、
自然が豊かに残るスウェーデンのスコーネ地方のエスロブに生まれたヴィンセント君が憧れの日本に来て、
日本人が宮本武蔵の時代のように四季とともに生きていないと知ったら、ブランド物の買い物の方が大切にしている人も少なくはないと知ったら、
夢が破れるのではないかと情けなくなりました。もちろん、環境問題のことは話してはありますが・・。
ヴィンセント君は私にお金を使わせないように実に心配りをしてくれました。おかげで、
タクシーもトラムという電車も市内観光もなし。10日と11日は歩け歩けの毎日でした。日本食レストランに朝夕と入りましたが、
注文するものもきちんと考え、アイスクリームは自分のお小遣いで払いました。なんだか一昔前の日本人のようで、口がきれいな男の子でした。
2005年09月15日 05:35 | 投稿者: rumi | コメント (0)
ストックホルムのサムライデー
9月10日(土)
今日から3日間、友達になった14歳のヴィンセント君とストックホルムの「サムライデー」
を観にストックホルムに来ています。彼は侍や刀についてインターネットで独学をしています。私は今回お世話になっているスウェーデン・
ケアインステチュートのエメールさんを訪ねる目的があります。
サムライデーは科学博物館で日本刀の展示や居合道や弓道、
それに日本から東工大の教授が来て太刀を作る鉄を1400度の窯で鋳るなどのデモンストレーションがあります。
芸大の北田さんという教授にもお会いしました。写真はヴァーサ号博物館です。
ヴァイキングの刀の展示もあり、面白かったのは刀を砥ぐ作業をしている職人さん (有名な方なのでしょう)の話をヴィンセント君が聞いての感想。「ヴァイキングの刀は刃こぼれがしていても平気、 日本刀のように美しく鋭利に砥がないんだ。日本刀は「切る」ためのもの。ヴァイキングの刀は叩き殺すもの。違いが面白い」というものです。 日本の文化の素晴らしさはこの繊細さにあると再認識をしました。居合道も弓道もデモンストレーションはスウェーデンの男性がしています。嬉しいですね。ヴィンセント君のことを書いたら、マーシャル理恵子さんがメールをくださいました。
夫も10歳のときに、オーストラリアで
「隠密剣士(古っ!)」に触れて、侍になりたいと思ったらしく、それ以来独学を続け現在に至っているのですが、その当時、
日本語を習いたいといったところ親や先生に「クレイジー」だと言われたとか。
当時は音声の出るインターネットなどは当然ありませんでしたから、図書館に行って、やっと見つけたのはたった一冊の日本語の本。
それを読破し、その本の中の漢字をすべて練習し尽くし、足りなかったので中国語で漢字をさらに学び、北京語、広東語もわかるようになり、
大学生のときには、受講していた中国語のクラスを中国人の先生が帰国される際に、引き継いで教えてさえいたという話です。
もちろん武道は欠かせるはずもなく、英国では空手を習い、挙句の果てに、居合いを学ぶために来日し、あっという間に20年。
(マーシャルさん無断紹介すみません)
マーシャルさんのご主人からヴィンセント君に日本語の習得法についてメールで伝授してくださるとのこと、
嬉しい限りです。ありがとうございます。彼のアドレスはvincent persson
<weeney_moto@hotmail.com>です。
2005年09月15日 04:53 | 投稿者: rumi | コメント (0)
元気な高齢者たちの巻
9月8日(木曜日) アクティビティの家 今日からブログは突然9月に飛びます。
一ヶ月が過ぎた昨日やっと皆さんにメールでブログのことをお知らせすることできました。
今日からはその日その日のことを書くことにします。これまで一巡した施設の情報は、この後、繰り返して訪問するので、
その時に報告します。
先週は朝、5時に起きて、
30分ほど離れたビリンゲという村や、市内で暮らす一人暮らしのケアが必要なお年寄りを30人ぐらい訪問しました。
スウェーデンの高齢者の子供との同居率は3%ぐらいと聞いています。老いて障害を持っても住み慣れた家に自由に暮せる幸せ・・
という言葉はあっても実際にお会いしたお年寄りは、特に農村サイドの方はどこか、孤独感を感じずにはいられませんでした。
老いるのはやはり大変、と胸に迫るものがありました。
ところが、今週は月曜日から「KARIDAL:カリダール」という、
日本で言えば老人クラブを訪問して、
すっかり、私自身も幸せな気持ちになりました。今日は半プロの年金生活者が結成したバンドを楽しむ日です。アコーデオンが2人、
ギターが1人、ボーカルが3人。みんな70代から80代の男性で、ここに紅一点の女性が司会者件時々ボーカルとして加わります。
彼女の年は推定70代後半から80代。7人でバンドを組んで、近隣の町を興行して廻るそうです。少ないけれど、もちろん、
ギャラを稼いでいます。参加者は丸テーブルの数を数えると60人ぐらいでしょうか。男性は20%ぐらい。
私が面白いと感じたのはグループメンバーのエンタテイメント性です。 音楽が始まると会場の人々が惹きつけられて、表情が生き生きとなっていくのがわかります。 紅一点の女性と男性たちの掛け合いトークは言葉がわからない私にも楽しさが伝わりました。 曲はリリーマレンなど私も知っている懐かしい曲が大半。20分ぐらいのコーヒーブレイクがついて1時間半ぐらいの演奏時間でした。 最後にはピンクのバラを一りんずつ主催者から手渡されて、バンドのメンバーも参加者もすっかり幸せな表情になって散会です。 音楽と人の交わり。私も幸せな気持ちになりました。
一昨日の月曜日に、 ここでさまざまなアクティビティを主催している年金者組合の方々のミーティングに私も参加しました。このカリダールと、 シャラオカという日本で言うと老人保健施設(つまり病院から家に戻るまでのリハビリ施設)の両方のマネジメントをするのが、 前述した理学療法士のスタファンさんです。スタファンさんやチームリーダーのアグネッタ・ ノーランドさんも加わっての盛んなミーティングでした。
2005年09月09日 03:51 | 投稿者: rumi | コメント (1)
トルホゴーデンサービスハウスさらに続く
サービスハウスはいわば、ケアつき住宅です。基本的な考え方は自宅。 一人で自宅にいられなくなったお年寄りがここに移り住みます。どのようにしてここに入れるかは、 4月にここに来た時にだいたい情報を得ていますが、もう少しきちんとした情報が入ってから書くことにします。
4月に来た時にインタビューした理学療法士でリハビリテーション部門のユニットマネージャーのスタファン・ オルッソンさんはサービスハウスに対してエスロブ市ではこのように考えていますと語ってくれました。 「スウェーデン全体ではサービスハウスは減る傾向にあります。施設の建築にはお金がかかるし、スタッフを新たに雇用しなければなりません。 環境問題という点でも安易に建物を増やすのは良くないといえるでしょう。また、誰もが住み慣れた自宅に一日でも長く住みたいと願うものです。 ですから、サービスハウスを減らしている自治体が増えています。しかし、エスロブでは簡単にサービスハウスをあきらめないつもりです。 なぜなら、ここは安全だからです。一緒に映画も観られるし、ゲームもできます。社会の中に住んでいる環境が作れます。たしかに、 お金はかかりますが、反面、いいサービスを提供できます。エスロブ市ではこれ以上、増やすことはしませんが減らすことはしないつもりです。 保っているというのがちょうどいい表現でしょうか」
部屋は、 どのお年よりも自宅から古い家具を持ち込み素敵に暮しています。ほとんどのお年よりがのんびりとテレビを観ている中で、 拡大鏡で新聞を見ている方がいました。うらやましいのはすべての部屋に必ず台所が付いていること。家族が来た時にお茶を入れられるし、 何より台所があることに哲学があるようです。つまり、ここは部屋ではありません。自分の家です。住みかです。だから、 台所がない訳にはいきません。という考え方です。4月に訪ねたストックホルムのグループホームでも同じように台所を見ましたが、 ある施設では申し訳程度の設備だったのを思い出しました。施設を見て周り、比較をするのは避けなければなりませんが、 私が観た限りエスロブではどこでも写真ぐらいの大きさの台所が付いていました。
2005年09月08日 00:26 | 投稿者: rumi | コメント (0)
トルホゴーデンのサービスハウスの続き
8月15日(月)続き
トルホゴーデンのサービスハウスは4つに分かれています。12室のユニットが1つ、 14室のユニットが2つ、15室が1つ。この4つのユニットを2つのグループに分け、 2グループに分かれたスタッフがケアを受け持ちます。部屋は全部で55室あり、例えば、 レイナさんの受け持つ29人の高齢者は男性が11人で女性が18人。1番若い人は77歳。最高齢の方は、 今年のクリスマスで103歳になるそうです。滞在年月は、トルホゴーデンができた1996年からいる方もいれば、 数ヶ月で亡くなるケースもある。認知症の方もそうでない人も混ざっているそうです。
スタッフの数はモーニングの時間帯の7:00から15:15が4ユニットにそれぞれ3人ずつ。 イブニングの昼から夜間にかけての13:00から21:15が2人ずつ。ナイトの21:00以降朝にかけては、 3人がすべてのユニットを看るという体制です。彼女のチームは7人いて、3人がフルタイム、4人が75%のパートタイム。 もっとたくさんスタッフがいれば、やってあげられることも多いのにと彼女は答えました。とくにウィークエンドは、人手が不足して、 湖に連れて行ってあげることもできないし、カード(簡単なトランプ遊び)を一緒にすることもできないと答えました。
2005年09月08日 00:08 | 投稿者: rumi | コメント (0)
トルホゴーデンのサービスハウス
この写真はトルホゴーデンというサービスハウスの玄関です。2重扉の中に受付があり、
15分前に着いた私を早くもサービスハウスのチームリーダーのレイナ・クリステンセンさん
が玄関で待っていてくれました。まだ、20代の若いチームリーダーです。ちょっとシャイな
印象ですが、物腰が落ち着いていて、喋り方もソフト。礼儀の正しさがとても好印象を持ち
ました。それに美人。
彼女はエスロブ市のアンダーナース
(看護師と介護師の中間的な存在)の教育を1年間
受け、さらにチームリーダーの教育を1年間受け、現在の仕事についています。この後、
廻った中では格段に若いリーダーです。なぜ、この仕事を選んだのですかと聞くと 「私は
人に接するのが好きで、お年寄りが好きだから」と答えました。1時間ぐらいインタビュー
をしてから、中を見せてもらいました。 こうした、取材形式はこの日だけで、これから始ま
る後の日々は、1日8時間ぐらい滞在して、ケアをする人たちの後について廻り、 働く姿
を目で追いかけ、お年寄りの部屋を訪ね、一緒に歌を歌ったり、 スウェーデン語の会話集を開いて言葉を教わったりという密着した形で
体験しました。 レイナさんは忙しい時間を割いてくれたことがあとでわかりました。だいたい、どこでも現場は手一杯の感じですが、
ケア
をしながら、 皆さん本当に親切に説明をしてくれました。いろいろな現場ならではの情報が手に できた。これは 「木を観る」
に当たる取
材で「森を観る取材」 はマネージャーにインタビューした方がいいということをこの日の取材から判断しました。
2005年09月06日 06:09 | 投稿者: rumi | コメント (0)
やっとブログを送れます
2005年8月15日(月)
今日から10月26日までの2ヶ月半のエスロブの高齢者ケアの取材が始まります。
こちらは朝が早く、私は目的のトルホゴーデンの施設に行くのに7時20分に学生寮を出ました。
日本を出たときは夏の真っ盛りだったのに、こちらは朝の空気が初秋という感じです。
学生寮の門を出て少し歩くとすぐに森に入ります。その森をまっすぐに10分も歩くと、野鴨が遊んでいる小さな小さな湖に出くわします。
トルホという名前の沼のような湖です。トルはTROLLで北欧神話に出てくるちょっとユーモラスな巨人。
ホはSJOでOの頭に点々がつくのですが、湖という意味です。
トルホゴーデンは人口3万人のエスロブの町でいちばん風光明媚場所といえましょう。
このいちばん贅沢な場所をこの町は今日訪ねるトルホゴーデンの高齢者の施設に使っているのです。
私は施設と書きましたが、施設というよりケア付アパートという方が正しいでしょうか。ここにサービスハウスというケア付住宅が55室。
認知症の方が暮すグループホームには16の部屋があります。合計で70あまりのアパートがあるのです。たぶん、
部屋のどこからもこの湖が望めるように設計しているのでしょう。後日、この施設を企画デザイン、
建築したノンプロフィットの会社エボEBOを取材する時に詳しく聞くことにします。
それから、この施設の反対側は普通の住宅地で、ここは決して人里離れた場所ではないのです。 学生寮から反対側に向かい10分も歩くと、こんどは駅前の商店街に出ます。 エスロブ市のモットーはすぐ傍に自然があるということなのです。 駅前にはウエスティンスウェーデンの自転車は腰掛が高すぎて足が着かず、私はこれから20分、 30分と歩いて方々の施設を廻ることになります。
エスロブ市の65歳以上の人口は4,820人で、高齢化率は16,3%(2004年)。 その中で80歳以上が占める割合は約3割。2010年には高齢化率が18%になると予測されています。高齢者の施設は市営のものが5つ、 6つあります。追って正確な数をブログに書きましょう。これから、私は前半の一ヶ月で4つの市営の施設と1つのNGOの施設、 それに南北2つの在宅ケアサービス、市営のアクティビティハウス、食事の宅配サービス、在宅リハビリサービスを取材します。 それにこれらの施設のマネージャーの方にも何人かインタビューする予定です。 最初は風景の写真が続きますが、肖像権の問題があり、許可を得てから人物写真が加わる予定です。
2005年08月30日 04:07 | 投稿者: rumi | コメント (2)
今日からエスロブの生活が始まります
クリスチーナさんの家の庭から
2005年8月13日
今日から南スウェーデンのESLOV(エスロブ)という町での生活が始まります。
エスロブは南スウェーデンのスコーネ地方にある人口3万人の町。あのニルスの不思議な旅の舞台になったところです。
魔法使いに小人にさせられたいたずら好きなニルスがガチョウの背中に乗って、スコーネを眺めおろすと、眼下に市松模様の畑が広がる・・
と本に書かれていますが、地平線まで視界が開けている土地です。写真は私がお世話になるクリスチィーナ・ウォーミングさんの家の庭。今年、
4月に下準備で訪れた時に写しました。クリスチィーナさんは元エスロブ市長。「キリスト」と「温かい」が合わさっているその名前のように、
親切で頼もしく、チャーミングな1946年生まれの女性です。「ルーラルなわが家」と彼女は自宅を紹介しましたが、農家の廃屋を買い取り、
夫と二人で、土を堀耕し、花を植え、ニワトリたちを育て、丹精こめて作った庭です。向こうに見える東屋も手作りです。
2005年08月11日 19:57 | 投稿者: rumi | コメント (3) | トラックバック (31339)
エスロブ
2005年8月13日
ここはエスロブのピープルズハイスクール。外国人や、社会人や移民の方々で学校に行けなかった方などが学ぶ学校です。
私はこの学校には通いませんが、寄宿舎だけを借りて、自炊をしながら、「認知症の高齢者のターミナルケア」
をテーマにこの町のホスピタリティ・ケア(温かなケア)の姿を学び、取材し、書いていきます。
滞在は8月13日から10月27日まで。帰国は10月28日となります。期間を一ヶ月ずつテーマごとに3つに分けました。 滞在の前半は(1)慢性疾患患者の方々へのケアの現場での研修。後半は(2)グループホームやデイケアなどにおける認知症の高齢者へのケア。 そして、来年早々にもう一度、一ヶ月近く訪問する予定で、取材や訪問が可能かは決まっていませんが、(3) 家族 自治体の取材と考えています。
2005年08月09日 19:55 | 投稿者: rumi | コメント (2)
「どうしてそんなにスウェーデンに行きたいの」とよく人から聞かれる。
「どうしてそんなにスウェーデンに行きたいの」とよく人から聞かれる。
スウェーデンに長期滞在して介護の現場を訪ね、
自分の目で質の高いサービスのあり方を確かめてみたい。そして、それを日本に紹介しきたい。これが、
母の介護を始めた一九九〇年からの夢だった。おかげで、困難に出会うと夢が心を温めてくれ、励ましてくれた。
十一年間の働きながらの在宅介護を終えたのが、二〇〇〇年十月三日だ。母を自宅で看取った。その六日前、
私が五三歳で初めてウェディングドレスを着るというおまけが付いて、介護生活は終わりを遂げた。この年、
大晦日の六時三〇分まできっちり働き、私は三十三年も勤務した銀座の専門店をやめた。
以来、年賀状に「今年こそスウェーデンに行きます」という言葉をほのめかし、意気込むのだが目処が立たないまま、
次の正月を迎えるというパターンが続いていた。
アクセス方法が見つからないのだ。
スウェーデンの介護の現場や人々の中に分け入るにはどんな方法があるだろうか。ツアーの視察旅行では物足りない。
大学の福祉学科に入学してから留学するのが正攻法だが、仕事をやめた直後は疲れ果て大学生になる自信がなかった。それに、
留学したらこの歳になり手にした伴侶と暮らす生活を棒に振る。夫を一人残して家を長期に空けられないから、
三ヵ月ぐらいの滞在がせいぜいという折衷案に落ち着いた。物足りないが、三ヵ月を有効に使う方法を探すのが次の課題となった。
現地に暮す留学斡旋の日本人エージェントを紹介するという話もあったが、これはイメージが違った。スウェーデン大使館に直接行き、
問い合わせてみよう。そんな、思いあぐねる月日が続いた。
アクセス以前の問題もあった。
英語力である。スウェーデンでは高齢者も英語を話すという。訓練施設で授業を受けたり、ホームステイして人々と触れ合ったりするには、
スウェーデン語とまでいかなくても、英語で読み書き話すことに慣れるのが不可欠だった。
何より私には福祉の素養が不足していた。ひたすら、小売業で働いてきた私は福祉の門外漢である。介護期間や、
母の在宅介護を二冊の本にまとめる中で、本だけはたくさん読んだつもりだが、これだけでは話にならない。
専門性の高い福祉を確実な視点で伝えるには、基礎的な勉強が必要だった。
アクセス方法を探す、英語力を高める、福祉の勉強、さらに文章力をつけることが、退職後の私の毎日の課題となった。
以来、母校の清泉女子大学や上智大学、明治学院大学で科目等履修生となり、日本語表現法や社会福祉の授業を受講している。
英会話スクールにも通い始めた。しかし、商売気がありすぎる最近の英会話の学校は肌が合わない。困っていたら、
アメリカ人のダニエルという若い女性と出会う幸運に恵まれ、個人レッスンを受けられるようになった。ダニエルの帰国後は、
その友人のジャスティーンを紹介してもらい今もレッスンを続けている。
二〇〇二年に二冊目の本を書き終えると、講演の依頼が来た。これは、浪人生活をしている私にはいい勉強の機会となった。
時間をかけて資料を調べ、準備を怠らないように努めた。
こうして着々と準備を進めたが、スウェーデンへのアクセス方法はまだ探せなかった。
一方で疑問が湧いた。スウェーデンの素晴らしい福祉を、専門家でもない私がいまさら紹介して何の意味があるのか。
この道の権威は星の数ほどいる。故外山義さんや訓覇法子さんをはじめ、二〇年、三〇年と現地に住んで根を張り研究活動をしている人々がいる。
大学で福祉の研究を続けている先生たち。スウェーデンと交流の深い医師や看護師や理学療法士の方々など、
私が運よく参加できた上智大学の冷水教授のフィールドワーク調査で会った研究者を見ていると、たった数ヶ月の滞在で、福祉にも、
執筆にも素人の私に何ができるのかと自問した。
もはやスウェーデンモデルではない、という意見もある。オーストラリアのような日本に近い社会システムの国の方がモデルになる。
北欧と日本では政治や社会のあり方が違いすぎる。北欧の福祉は夢の世界というのだ。また、「日本には日本型の福祉が存在するじゃないか。
西洋ばかり見ないで、もっと、日本に目を向けなさい」という指摘もあった。何しろ九〇年代当初は年間五千人という視察団が、
例えばデンマークを訪ねたという。こんなに多くの日本人が北欧から学んできたのに、日本の福祉は根源的な部分で変わっていない。
これはなぜなのか。時々、私は考えすぎて落ち込んだ。
私はへこたれたが夢はへこたれなかった。
夢が生まれた瞬間の記憶がある。八一歳の母の介護が始まった年の九〇年、わが家で、羽田澄子監督の「安心して老いるために」
という記録映画のビデオを観ていた時のことだ。テレビの画面では、スウェーデンのモタラという町にある、バルツァ・
ゴーデンという草分け的なグループホームが紹介されていた。ビデオの中の、一分足らずのシーンがするりと私の心に入り込んだ。
そのシーンはいつしか私の夢になった。夢は人知れず膨れ上がり、今も私の心に住み続けている。
そのシーンは、自宅に帰りたいと一人の老人性痴呆症(認知障害)の男性が、帽子を被り、
ステッキとボストンバックを携えて夜の廊下を歩き出す場面である。わが家でもよくあった。母は自分の家にいるのに「おうちに帰る」
と童女のように泣きじゃくった。映画では女性の介護者がどこからかともなく現れ、さりげなく男性の手を自分の両手で包み、優しい声で
「ここはあなたの家ですよ」と語りかけるのだ。映像が実に穏やかである。女性の声のやさしさ、
納得して部屋に戻り帽子をぬぐ老いた男性のしぐさ。双方とも態度が自然でギスギスしていない。
どうして、日本の介護の現場は、汚く、厳しく、辛いといわれるのだろう。
私は七八年に都内の老人病院で亡くなった父方の伯母の老人病院の壮絶な最期が忘れられなかった。
ジャーナリストの大熊一夫さんが数年前に週刊誌「アエラ」に連載した日本の老人病院の悲惨なルポルタージュも記憶に新しかった。
このケアの質の差は何が原因で生まれるのか。
どうして日本の障害を持つ高齢者は惨めなのか。どうして介護者は雑巾のように燃え尽き、疲れ果てるのか。なぜ、
スウェーデンでは自然体で介護ができるのか。異常行動をする認知症の老人はいないのか。
長年、私は銀座の接遇の質が高いと評判の専門店で働き、温かく人に接するにはどうしたらいいかと、実践しながら考え続けてきた。
社内研修をしたり、社外ではサービスの講演をしたりする機会が多かった。だから、人の態度や振る舞いにとりわけ関心を持っていたのだ。
私は映像に写った介護者の肩の力を抜いたやさしい振る舞いに注目した。その映像の記憶は、いつしか「スウェーデンを訪ね、
この目で実際の姿を見てみたい」という夢に変わった。夢が心の中で成長していったのだ。当時は母を抱える私生活の面でも、
職場の立場においても、旅行など叶わぬ境遇だったから、スウェーデンに行きたいという思いはますます募っていった。
2005年06月08日 20:22 | 投稿者: rumi | コメント (0)